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【キリスト教伝来470周年】日本に与えた影響を解説

2019年3月26日 兵藤 かおり

2019年は、日本にキリスト教が伝来して470年の節目の年です。中学受験の社会では、「周年問題」といって「○○周年」の出来事や関連事項が問われる傾向があります。

そこで今回は、「キリスト教伝来470周年」にフォーカスして、日本にキリスト教がやってきた背景と影響、また織田信長と豊臣秀吉のキリスト教への対応を整理します。周年問題は歴史だけでなく、地理との複合問題でも出題されやすいので、地図帳を用意して「どこで起きたのか」をお子さんと一緒に確かめてみてください。

1549年にキリスト教が日本に伝来

戦国時代後期の1549年イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル鹿児島に上陸し、キリスト教を日本に伝えました。ザビエルが日本へやってきた背景をみてみましょう。

ザビエル来日の背景

日本にキリスト教がもたらされた要因はふたつ挙げられます。

ひとつは宗教改革です。16世紀のヨーロッパでは、宗教改革によって新教の「プロテスタント」が活発になりました。一方で、旧来の「カトリック」のなかには、プロテスタントに対抗してアジアでの宣教に力を入れる修道会が出てきます。そのひとつがイエズス会です。日本にキリスト教を布教させたフランシスコ・ザビエルは、イエズス会の創立メンバーのひとりでした。

もうひとつは海外貿易です。15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパは海外貿易の拡大を進める「大航海時代」を迎えます。積極的に海外貿易を推し進めたのが、ポルトガルスペインです。ヨーロッパを出港後、アフリカをまわって、インド、アジアまでの航路を開拓し、アジア各地に貿易拠点を築きました。その過程で、キリスト教がアジア諸国に布教されることになります。

日本上陸後のザビエルの足取り

ザビエルは、ポルトガル国王の要請にしたがい、インドのゴアへ宣教の旅へ出ます。そして、マラッカ(マレーシアの都市名)で日本人のヤジローと出会ったことで日本の文化に興味を持ち、来日することになりました。

ザビエルが日本上陸後に向かった地名をみていきます。お子さんと地図帳を見ながら追ってみてください。

まず、ザビエルは薩摩半島(鹿児島県)の坊津(ぼうのつ)に降り立ちます。そして現在の鹿児島市で、薩摩(鹿児島県)での布教を許可されます。

その後、肥前(長崎県)平戸、周防(すおう)山口(山口県山口市)、(大阪府堺市)で宣教活動をおこないました。そして(京都)に入り、日本全国での布教の許可を求めるために天皇の拝謁(はいえつ)を望みましたがかないませんでした。

その後、ザビエルは周防の守護大名・大内義隆に山口での宣教活動を許され、大道寺(だいどうじ)という廃寺を1つ与えられました。ここが、日本初の常設教会堂となり、布教の拠点となりました。その後、ザビエルは豊後(ぶんご・大分県)の守護大名・大友義鎮(よししげ)のもとで宣教活動をおこないます。結果的に、ザビエルの日本滞在期間は2年ほどでした。

ザビエルが去ったあと、多くの宣教師が来日します。彼らは、九州を中心に中国・近畿地方で熱心に布教活動をおこないました。日本におけるキリスト教信者の数は急速に増え、本能寺の変が起った1582年には15万人に達したといわれています。では、なぜキリスト教はこれほどまでに日本で広まったのでしょうか?

南蛮貿易とキリスト教

キリスト教が伝来する前の1543年ポルトガル人が日本に鉄砲を伝えました。そこからはじまった南蛮貿易とキリスト教の布教は切っても切り離せません。

1543年は、「いごよみだれる(以後の世乱れる)鉄砲伝来」と覚えましょう。

鉄砲伝来と南蛮貿易

1543、3人のポルトガル人を乗せた中国船が種子島に到着します。このとき、ポルトガル人が持っていた鉄砲(火縄銃)を島主であった種子島氏が買い求め、家臣に製法と使い方を学ばせました。

種子島の位置は入試で出やすいので、お子さんと地図帳で確認してみてください。あわせて隣の屋久島も出題で狙われます。種子島は細長く、屋久島は丸に近いといったように、島の形を覚えておくのも効果的な覚え方です。

種子島到着をきっかけに、ポルトガルの商人たちが来航し、貿易を始めました。貿易はおもに九州の長崎平戸でおこなわれ、鉄砲や火薬時計ガラス中国の生糸などが輸入され、日本からはおもにが輸出されました。ポルトガル人やスペイン人のことを南蛮人、彼らとの貿易を南蛮貿易といいます。

キリシタン大名と天正遣欧使節

ポルトガル船は、キリスト教の布教を認めた大名が治める港に入港し、貿易を望む大名はこぞって布教に協力しました。キリスト教の熱心な信者となって洗礼を受けた大名のことを「キリシタン大名」といいます。

キリシタン大名のうち、豊後の大友義鎮、肥前の大村純忠(すみただ)有馬晴信(はるのぶ)の3人は、1582年に4人の少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。天正10年に派遣した使節なので「天正遣欧少年使節」といいます。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名は、派遣当時13歳~14歳。船でインドのゴア、ポルトガルのリスボンをまわり、ローマに到着。ヨーロッパの人々に日本の存在が知られることになりました。活版印刷機や西洋楽器、海図などを1590年にヨーロッパから日本へ持ち帰ってきたのも、「天正遣欧少年使節」の功績です。

織田信長と豊臣秀吉の対応

キリスト教について、織田信長豊臣秀吉の2人の権力者の対応は異なりました。

キリスト教を「保護」した織田信長

1568年、将軍・足利義昭(よしあき)を擁して京都に入った織田信長は、翌年イエズス会の宣教師ルイス・フロイスと対面し、畿内での布教を許可しました。キリスト教を保護した理由の1つは、当時の日本で強大な力を持っていた仏教に対抗するためだったと考えられています。信長は、石山本願寺を頂点とする浄土真宗と11年に渡って戦い、1571年、比叡山延暦寺を焼き打ちにしています。

また、キリスト教の布教と南蛮貿易が一体となっていることに注目します。キリスト教を保護することにより南蛮貿易で利益を上げること、西洋の知識、製品、技術を得ることなどを目的にしたとも考えられています。なお、オルガン演奏などキリスト教の文化を楽しんだ信長でしたが、徹底的な無神論者であったそうです。

キリスト教を「禁止」した豊臣秀吉

豊臣秀吉は、信長と同様にキリスト教を保護していました。ところが1587年、薩摩の島津氏征伐のために九州へおもむくと、キリスト教は国づくりの邪魔になると考えました。なぜなら日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠が、重要な港である長崎の港をイエズス会に寄進し、港が教会の領地になってしまっていたからです。

そこで、秀吉はまず大名たちがキリスト教へ入信することを許可制にしました。そして、バテレン(宣教師)追放令を出しました。神社仏閣を破壊したとして、キリスト教宣教師を国外へ追放させることにしたのです。

一方でポルトガル商人の来航は認め、南蛮貿易は続けました。しかし1596年、スペイン船サン・フェリペ号が土佐に漂着したとき、「領土拡張をするためにスペインがキリスト教を利用している」という話が伝わり、秀吉はスペイン系のフランシスコ会の宣教師を処刑します。こうして、キリスト教への弾圧が強まっていきました。

身近なアレも? 南蛮貿易が日本にもたらしたもの

ここまで入試に出そうな重要事項をまとめてきましたが、「現在の生活で身近なものが、南蛮貿易でもたらされたもの」ということもお子さんにぜひ教えてあげてほしいと思います。たとえば、カステラ、雨具のカッパ、カルタ、コンペイトウ、パンなどは、もともとはポルトガル語です。

周年問題は色々な角度から出題されます。新聞やテレビなどにアンテナを張って、楽しんで勉強してみてください。

※記事の内容は執筆時点のものです

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