【社会】五公五民とは? 5つの区間をもとに「税の歴史」を押さえよう
2023年に入ってほどなく、「五公五民」という言葉が突如としてSNSでトレンド入りしました。
「税金の国民負担率が50%に迫っている」というニュースが発端のようですが、五公五民という言葉は、もともとは江戸時代の年貢の税率を表す言葉です。
五公五民
五公……収穫した米の半分を税として納める
五民……残りの半分を自分のものとする
五公五民と似た言葉で「二公一民」という言葉もありますが、こちらも税率を表す言葉。
豊臣秀吉が太閤検地をおこなったころ、収穫された米の3分の2を年貢として納めなくてはならなかったため「二公一民」と呼ばれています。
五公五民・二公一民ともに税に関する言葉ですが、その時代背景などは正しく理解できていますか?
歴史の教科書には税についての記述が飛び飛びで登場しますが、中学受験に関していうと「ひとつのテーマ」に沿って流れを追う勉強法がおすすめ。
そこで今回は「日本の税」にテーマをしぼり、その歴史的な流れを一緒に追っていきましょう!
Contents
お金だけじゃない! 3種類の税
そもそも「税」といっても、何を納めれば良いのでしょうか?
現在の日本の税は、もちろんお金ですよね。ところが税の歴史をさかのぼると、大きく分けて3種類の税があることがわかります。
- モノ(主にお米)
- 労役
- お金
税といっても、モノで納めたり、体を使って働いたりと、現代の私たちにはイメージしづらい税もあったことを押さえておきましょう。
特に、長らく税の主役だったのが「お米」です。
モノ (主にお米)
江戸時代より前は、税をモノで納めることがメインでした。
布や糸だったり、その地域の特産品だったりしましたが、もっとも主流だったのがお米ですね。
労役
労役(ろうえき)とは、ズバリ「働くこと」。
兵士となって土地を防衛したり、モノを運んだり、建物を建てたりと、かつてはさまざまな労役が税として課されていました。
お金
もっともイメージしやすい税といえば「お金」でしょう。
明治時代の地租改正あたりから、税をお金で払うことが普通になってきました。税のことは「税金」と言ったりもしますね。
【概要】5つの区間に分けて整理しよう
では、税の歴史をたどってみましょう。
中学受験で必要な知識にしぼってシンプル化してみると、飛鳥時代の律令体制から始まり、現代に至るまで、日本の税の歴史は「5つの区間」にザックリと分けられます。
全体像を捉えるためにも、この「5つの区間」は強く意識しておきましょう。
詳細は後述しますが、ここではそれぞれの区間(時代)の概要を簡単に紹介します。
1、律令の時代
701年に制定された「大宝律令」によって、人民は土地を与えられる代わりに、租・庸・調や、雑徭(ぞうよう)というかたちで税を納める、という仕組みができあがりました。
とてもシンプルな税の仕組みです。
2、荘園の時代
743年に制定された「墾田永年私財法」をきっかけに、貴族や寺社が競い合うように全国の田を開拓しはじめます。
これにより一部の貴族や寺社が大きな私有地をもつようになる一方で、朝廷が受け取る税はどんどん減ることに……。
3、石高の時代
荘園の時代が長く続いたことで、土地の所有者が誰だかわからないグチャグチャな状況に。そこで豊臣秀吉は、すべての土地の広さと所有者を書いた名簿をつくり、年貢を納めさせました。
その結果、再びシンプルな税の仕組みに戻ります。
4、地租の時代
石高の時代、税のメインは「米」でした。ところが不作の年には収穫量が少なくなったり、技術が発展して生産が増えると価値が下がってしまったりと超不安定……。
そこで米をやめて「現金」で納める、という大転換がおこなわれました。
5、近代化の時代
明治時代の終わりごろ、所得税や法人税の仕組みがつくられました。
そして大正から昭和にかけて、現在の税の仕組みにつながる制度が徐々に整備されていきます。憲法には、納税は「国民の義務」と書かれました。
【詳細】5つの区間に分けて整理しよう
税の全体像はつかめましたか?
それでは、それぞれの区間について詳しく見ていきましょう。
特に大切なのは「納税の構図」。時代背景や、税の種類も紹介しますので参考にしてみてください。
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1、律令の時代
日本でしっかりとした税の仕組みができたのは、飛鳥時代の「大宝律令」がそのはじまりとされています。
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背景
天皇中心の国づくりのなかで「大化の改新」がおこなわれ、公地公民が明文化されます。公地公民とは、土地も人民もすべて天皇のもの、という政治方針のことです。
そんななか「班田収授法」がつくられ、人民に土地(口分田)を与える代わりに税を納めさせる、という仕組みが整えられました。
税の種類
モノで納める「租・庸・調」と、労役で納める「雑徭(ぞうよう)」がありましたが、当時の税のメインは租です。租とは「お米」のことですね。
ほかにも、労役の税として「防人(さきもり/九州の防衛)」なども税として課されました。
納税の構図
律令時代の納税の構図は、かなりシンプル。
たとえば租でいうと、天皇から与えられた自分の土地(口分田)で収穫した米の3%を朝廷に納めるというもので、この頃は税率もまだ小さいです。
2、荘園の時代
荘園の時代は税の仕組みのなかでも特に複雑なので、ここでは可能な限りシンプル化して紹介します。
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背景
土地管理制度として「班田収授法」が制定されましたが、人々のモチベーションがまったく上がらない、という大きなデメリットがありました。
がんばって開墾して米をつくったとしても、死んでしまったら土地は国に返すルールになっていたからです。
せっかく土地を整備して、キレイに耕しても、その土地を子供たちに引き継ぐこともできません。
そこで、親子三代まで土地を引き継げる「三世一身法」、そして永久に土地を引き継げる「墾田永年私財法」がつくられました。
こうした制度が次々に制定されたことで、土地の整備や開墾が一気に加速します。
(詳しい経緯は割愛しますが)力をもつ貴族や寺社のもとに“米が獲れる土地”がどんどん集まっていきました。
税の種類
荘園時代は、米で納める年貢がメインです。
布や糸、特産品などを納める「公事(くじ)」、労役で納める「夫役(ぶやく)」、関所を通るときに納める「関銭(せきせん)」などの税もありましたが、ここでは年貢だけを押さえておけばOKです。
納税の構図
当時の納税の構図は、ちょっと複雑。
まず、人民に与えられた口分田は、その地域で力をもつ豪族が取りまとめるようになっていました。「開墾されずに放置された土地は、他人が所有して開墾しても良い」というルールになっていたからですね。
そこで「放置された土地」をガンガン集め、大きな土地を所有して開墾する“猛者(もさ)”が現れました。
ポイントはここから。
土地をたくさんもっていた豪族は、なんと、力をもつ貴族や寺社にその土地を寄付してしまいます。
理由は、その土地を守るため。貴族や寺社には次のような“特権”があったこともあり、彼らに預けておけば安心、と考えたんですね。
不輸(ふゆ)の権……税を納めなくてOK
不入(ふにゅう)の権……自分の土地に国の役人が入ることを拒否できる
一方で、土地をたくさんもつ貴族や寺社が税を納めないとなると朝廷としては大変……。
実際、朝廷の税収はかなり減ってしまいました。
3、石高の時代
豊臣秀吉の「太閤検地」により荘園の時代が終わりを迎え、石高の時代が訪れます。
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背景
長らく続いた荘園時代では、貴族や寺社が土地をとりまとめていました。しかし、その土地を誰が管理しているかわからない、という問題もありました。
朝廷の税収もガンガン減っていくなか、そうした状況を打開する政策として「太閤検地」をおこなったのが豊臣秀吉です。ちなみに豊臣秀吉は、天皇の補佐をする「関白」という役職についていました。
太閤検地によって次の3つを徹底的に調査したことで、年貢をしっかりと取り立てることができるようになりました。
- 土地の広さ
- 管理者(その土地の持ち主)
- 石高(その土地で収穫が予想される米の量を表したもの)
税の種類
石高時代の税も、米で納める年貢が中心でした。
夫役や、商工業者を対象とした「運上金(うんじょうきん)」「冥加金(みょうがきん)」という税もありましたが、ここでも年貢だけを確実に押さえておきましょう。
納税の構図
荘園時代の複雑な税制度は、豊臣秀吉の太閤検地によって再び“超シンプル”な構図に戻ります。太閤検地によって算出された石高の3分の2の米を朝廷に納める、という仕組みになったんですね。
石高とは、その土地で収穫が予想される米の量を表したもの。
実際に収穫された米の3分の2ではなく、「石高の3分の2」ということもポイントです。米が獲れても獲れなくても、税は同じぶんだけ徴収されました。
こうした取り組みにより、秀吉は安定した世の中を目指したのです。
4、地租の時代
ここまで見てきた時代は米で税を納めることがメインでしたが、明治維新で実施された「地租改正」により、日本の税の歴史は大変革を迎えます。
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背景
石高をもとにした税制度は、一見すると税収が安定するように思いますよね。しかし、実はそうではありませんでした。
農作物は天気などによって豊作・不作の年があり、収穫量はかなり不安定。農業技術の進歩によって米をたくさん収穫できるようになったこともあり、米そのものの価値も下がってしまいました。
そこで「米による納税をやめる」という大転換を打ち出します。米での納税をやめて、貨幣(現金)による納税へとルールを変更したのです。
税の種類
地租と呼ばれる税が、年貢に替わって新しい税になりました。
地租とは、土地の値段(地価)に応じて納める税のこと。貨幣(現金)で納めることが義務付けられました。貨幣は、米よりも価値の変動が安定していることも押さえておきましょう。
納税の構図
地租を納税する仕組みも、とてもシンプルなものになりました。
土地の値段(地価)の3%を政府に納税する。
たったこれだけになったんですね。
5、近代化の時代
税の歴史も、いよいよ最後。現在の税制の“原型”ともいえる仕組みが整備された「近代化の時代」について見ていきましょう。
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背景
地租で納税する時代が続いていましたが、第二次世界大戦後のGHQによる戦後改革によって変化が起こります。
少数の大地主に偏りすぎていた土地を再分配する、という改革(農地改革)がおこなわれ、しばらくあとに地租も廃止されました。
ちなみに地租は「固定資産税」という形で現在でも残っています。
国税ではなく地方税ですが、土地の価格(地価)にかかる税金、という点では大きく変わっていません。
税の種類
明治時代後半になると、現在の私たちにも馴染みのある「所得税」「法人税」などが整備されていきました。
(もちろん米ではなく)自分が手にしたお金の一部を貨幣で納税します。
納税の構図
源泉徴収制度や申告制度など、現在の細かな税制度だけを見ると複雑なルールのように思えますが、その構造は実はシンプル。
働いたり、事業を起こして儲かったりしたら、その一部を納税する。
基本的には、この仕組みさえ押さえておけば問題ないでしょう。
まとめ
「五公五民」「二公一民」というキーワードをもとに、ちょっと複雑な日本の税の歴史についてまとめました。
ポイントは、5つの区間(時代)を意識すること。
区間ごとに背景や構図などが異なるので、次の表をもとに、それぞれの特徴をしっかりと押さえておきましょう!
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