『ボリュゾっていうな!~ギャルママが挑む″知識ゼロ“からの中学受験ノベル~』第2回
前回までのあらすじ
中学受験なんて遠い世界のこと。息子の照は地元の公立中学に進学させよう。そう思っていた茜だが、照の同級生・美優の誕生日会で、「うちの子の学力的にどうせボリュームゾーンだけど、公立中学では内申点を稼げそうにないし、伸び伸び過ごしてほしいから受験させる」という美優のママ・眞由美の発言を聞く。「中学受験はするのが普通」という海浜幕張の街の空気を実感する茜。それでも、照に中学受験をさせようとまでは考えてなかったけれど……。
『ボリュゾっていうな!』第2回
「ねえ、美優ちゃんは、パパが東大だからタワマンに住めるの?」
パーティーが終わり、タワーマンションの豪華なエントランスから外に出ると、照はそう訊いてきた。
「パパさん、東大なんだ。頭よさそうだものね」
茜は小柄でぽっちゃりした美優の父親を思い出す。眞由美が外資系企業で働いていたときに知り合ったと聞いた。東大を出て外資系勤務だと、こんなマンションに住めるのか、と思う。
タワマンなんて不便そうだと近所の住民とよく話すが、あの部屋の窓からの風景や大理石のキッチンを久しぶりに見た今は、タワマンに憧れる人がいるのもわかる。
タワマンの敷地の外にでると、冬の勢いがない雑草に覆われている空き地が拡がる。ベイパークと名前がついているエリアで現時点では殺風景だが、これからもっとたくさんのタワマンが建って、商業施設も増えていくのだろう。このマンションの横にもすでにイオンのスーパーとメゾンカイザーのベーカリーとカフェがあって便利そうだ。
「都道府県のカードゲーム、楽しかった。今度、パパに買ってもらおうかな」
22歳のときに妊娠して結婚した夫とはもう別れているが、照は、四六時中、父親の経営する美容院のバックヤードにいる。
「美優ちゃん、塾に行くと遊べなくなっちゃうな。ママたちも中学受験の話ばかりしてたね」
「中学受験、照はやってみたいの?」
「わかんない。ママは?」
「わかんない」
親子で同じ言葉を口にして、ふたりで声をあげて笑った。
「寒くない?」
茜は自分のストールに手をやる。照は丈の短いウールのコートだけで寒そうだから、巻いてあげようかと思う。
「大丈夫。ママは寒がりだから厚着してな。僕、先に行ってるね」
そう言って照はスーパーに向かって走り出した。この子が笑顔でいてくれるならなんでもしてあげたい。
月曜日。早番だから17時に仕事を終えて、職場を出ると、外がずいぶんと暗い。空を見あげると厚く重たい雲が海浜幕張の空を覆っていた。
雨も降りそうだしと買い物にも寄らずまっすぐ帰るが照は家にいなかった。公文に行っている日だ。算数、国語、英語の3教科をやっているから、2時間はかかる。
学校を休んでも、公文やスイミングはサボらない。照は基本的には、真面目な子だ。
そのくせ、いつもどおり学校に行ったような顔をして、公文のリュックを背に、帰宅してきた。
手を洗わせ、うがいをさせると、ダイニングの椅子に座らせる。
「学校を休むなら、ママにいってよ。行きなさいってもう言わないから」
「だって、そうするとママも仕事を休まなきゃじゃないか」
以前、学校に行きたがらない照を置いて仕事に出ていると、照はゲーム三昧になり、昼夜逆転生活になってしまった。二度とそうならないように、茜は照が学校に行かない日は茜が仕事を休んだ時期があった。それを見かねて、元夫であるケンゾウが店で照を預かるようになった。悔しいが父親がゲームはするなと言えば、それは守るのだ。
「また、太朗は背中を蹴ってくるの?」
太朗というのは、いじめっ子のことだ。パーティーのときに眞由美が「乱暴な子」と眉間に皺を寄せていた男子だ。かつての照の友人で、男子では一番仲がよかったが、今は天敵だ。一見、いじめっ子には見えないから厄介だ。スーパーで会えば、行儀よく挨拶をしてくる。最初は照から「暴力をふるわれる」という話を聞いてもなにかの誤解じゃないのかと思ったぐらいだ。小3なのに160センチの茜と同じぐらい身長がある。父親も長身だから、これからもっと伸びるのだろう。いつも同じ服を着ていて、この間、見かけたときもズボンに穴があいていた。
元々、軽く蹴ったり、腹パンをしたりしてきたりする子どもだったが、それがエスカレートしてきた。小3になってから、強く蹴られるようになり、
「来年は太朗とは違うクラスになれるよ。教頭先生にそう約束してもらったから」
ケンゾウがスーツを着て、教頭に直談判し、来年度は違うクラスになるよう取り決めをさせたけれど。
「クラスが変わっても意味ないじゃん」
照は真顔になって、冷静な口調で言う。
通っている小学校は、広いワンフロアでいくつものクラスが一緒に授業をやる。クラスごとに壁がないのだ。学年全体がひとつのクラスといってもいい。それだと、いじめの加害者とクラスを分けてもらっても意味はあまりない。
ケンゾウは転校させたらどうだと言ったが、茜は反対した。いじめたやつが残って、やられた方が出て行くなんておかしいだろう。
そう考えながらも、
茜は、息子のまだ小さな手を握った。
「ねえ、負けちゃだめよ。悪いのはあっちで、照はなんにも悪くないんだから。やられたら、すぐにママや先生に教えて」
照は下を向いて黙っている。沈黙が流れ、茜はふと目線を息子の頭の上に目をやった。
壁に照が書いた絵が飾ってある。コンクールで銀賞をとり、東京の大きな児童館に展示されたものだ。
画用紙に涼やかな色彩で大好きなアカシュモク鮫が描かれている。4メートルぐらいのサメが身体の凹凸を使いながら勢いよく泳いでいる。背景は青いがそれが海の中か、空かわからないようにあえてしたと照は話していた。本当は夢の中に出てきた“空を飛ぶサメ”を描いたんだよ!とも教えてくれた。
離婚した直後にふたりで行った葛西臨海水族館で長い時間、アカシュモク鮫を眺めていたから、それが夢に出てきたのだろう。こんなに素敵な絵を描く照には人生を謳歌してほしい。そのために自分はなにができるのだろう。
「ママ。僕、渋幕に行く」
照の少年らしい高く澄んだ声が部屋に響き渡った。茜は驚いて息子の肩に手をやり、顔を覗きこんだ。いつになく真剣な顔をしている。
「美優ちゃんがね、いうんだ。今、小学校で一緒の子たちが意地悪だから中学受験をして渋幕に行くって。僕もそこに入りたい」
眞由美は女子校に入れたいと話していたが、美優本人はそうではないようだ。
渋幕……渋谷学園幕張。千葉県で一番たくさん東大の合格者を出す超進学校だ。
照は母親の手をふり払い、椅子から飛び降りる。両手に拳を作って、ファイティングポーズをとる。
「僕、中学に入ったらダンスをもっとやるんだ。プロのダンサーになるんだ。そのためには高校受験とかしている場合じゃない」
月に二回通っているイオンモールのダンス教室は、プロの若いダンサーが講師をしている。大きな大会で優勝経験があったり、有名アーティストのミュージックビデオに出ていたりする人もいる。
照はいかにも子どもらしい、現実的ではない話をしている。プロのダンサーになるのはそうは簡単ではないだろうけれど、それでも、茜は一筋の光が差し込んだように感じられた。その光は茜が大好きな濃く明るいブルー色を帯びている。ダンスと中学受験は結びつかないようにも思うが、どうでもいい。
「照が夢を話してくれたのははじめてだね」
渋幕はとても頭がいい学校だから照が受かることは難しいだろう。でも、それにチャレンジしたいなら、やらせてやればいい。
ふと、眞由美が「中学受験させないの?」と訊いてきたことを思い出す。あれは学校を休みがちな照だからこそ環境を変えてあげればいいのに、と思ってかけてくれた言葉なのだろう。中学受験で「全落ち」して、公立・打瀬中学に通う子もいると聞くし、照もそうなるかもしれない。でも、挑戦してみてもいいではないか。
高揚した顔の茜を見て、照は「僕の決断をママは応援してくれそうだ」と捉えたのか、興奮したのか、ひとりでステップを踏み始めた。茜も横で同じように足を動かし出し、照を見て笑顔を浮かべた。
中学受験の用語解説「全落ち」
複数の学校を受験したのに、すべてに合格できなかったことを「全落ち」といいます。「全落ち」の場合、子どもは地元の公立中学に通うことになります。ただ、実際に全落ちをするのは、「安全校(滑り止め)」をそれなりに難しいところに設定していたり、一定の偏差値以上の学校に合格しなければ公立中学に進学し、高校受験でリベンジをしたりという意欲が高い家庭や生徒のケースも多々あり、必ずしも残念な結果とは限りません。海浜幕張は地元の公立・打瀬中学の進学実績が高いので、中学受験で「偏差値60前後の学校に落ちたら、打瀬中学に進学し、高校受験に向けて頑張る」という受験生も多いようです。
(イラスト:ぺぷり)
※記事の内容は執筆時点のものです
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