『ボリュゾっていうな!~ギャルママが挑む″知識ゼロ“からの中学受験ノベル~』第1回
『ボリュゾっていうな!』第1回
中学受験、というのは、茜にとっては遠い世界の話であった。美容師という職業柄、ギャルだった学生時代と同じように髪の色を明るくしたままでいるし、ひとり息子の照はダンス教室に夢中だ。22歳で出産しているから、海浜幕張の小学3年生ママの中では飛び抜けて年下で、教育熱心なママたちの会話にもついていけないこともしばしばあり、少し浮いている。
それでも息子の照を通して、仲良くなったママもいて、今日は駅の西にあるタワーマンションでの誕生日会に照を連れて訪れた。最近はみな塾や習い事で忙しく、こうやって友達の家に母子で呼ばれるのも久しぶりだ。
「揃った!」
息子の照の声がする。目をやると両手でカードを控えめにかざしていた。横にいるボブヘアの女の子、美優が悔しそうな顔をし、もうひとりの男子が「見せて見せて」とせがむ。今日の誕生日パーティーの主役は美優なのだから、花を持たせてわざと負けてあげればいいのにとも思うが、小3の照にそこまでの気配りはできない。
照はフローリングの上に8枚のカードを置く。漢字を組み合わせて都道府県の名前を作っていくゲームだ。照の出したカードは4つの県を表している。「大分」「佐賀」「茨城」「栃木」となっている。
「すごい! 高得点」と美優がいう。
「どうして?」と茜は子どもたちの間に座りこむ。
「だって、隣り合う県を組み合わせると点数があがるの。大分と佐賀、茨城と栃木も隣り合わせでしょ」
日本地図が書かれたシートを手に取って、美優が説明してくれる。美容学校の同級生に大分出身の子がいて、故郷の話をよく聞かされていたから、大分が九州なのは知っているけれど、他は分からない。地理は茜の不得意分野だ。いや、勉強全体が、というべきだが。
つけまつげ、ピアス、口紅、カラーコンタクト。物心ついたときから茜の興味の対象はそれらだった。高校を卒業後も美容師の専門学校に入った。
だから、美優の誕生日パーティーに呼ばれて、1500円以内という決まりの中で、選んだプレゼントはカラフルなビーズやスパンコール、プラスチック製の宝石でアクセサリーを作るキットだった。包みを開けた瞬間、美優は目を輝かせたが、美優のママ・眞由美の眉間には皺が寄った。
育ちが良さそうな眞由美が不機嫌な顔をすると迫力がある。なにか場違いなことをしたのかと思いながら、茜はミルクティ色の髪の先をいじる。もうひとりの子のプレゼントを見て、納得した。「頭が良くなる都道府県カードゲーム」という知育ゲームだった。ああいう、お勉強系のプレゼントが正解だったのか。眞由美は、早速、子どもたちに都道府県ゲームで遊ぶように促し、自分はダイニングに戻って、スマートフォンを操作していた。
もうひとり、別のママも来ていたが、仕事でトラブルが発生したといい、息子くんを置いて先に帰ってしまった。
茜は子どもたちのゲームを眺めていたが、眞由美をひとりにしているのも申し訳がない。ダイニングテーブルに戻って、ワインが半分ほど残っていたグラスに手を伸ばす。
「今年はエックスがまだ空きがあるみたい。来週も入塾の説明会をやるんですって」
「エックスって、駅の北口のある塾? 通りの奥に看板が出てますよね。頭がいい子が通う塾みたいですけど」
「もちろん。毎年、駅前のエックスの海浜幕張校は4人にひとりが渋幕に合格するんですって」
渋幕こと渋谷幕張は首都圏を代表する最難関の中高一貫校だ。この海浜幕張にある学校なのでさすがに茜も知っている。
眞由美は東洋英和を出ているそうだ。ドラマの舞台にもなった東京の名門校だという。美優もやはり一流校に入れたいのだろうか。
「美優ちゃんは、中学受験するんですか?」
「まあねえ。エックスに入れたらいいけれど、でも、どうしようかな。入塾テストに受からないと入れてもらえないでしょう。ピアノ教室で一緒の子も、先月受けて落ちたって」
眞由美は手の平にほっぺたを乗せ、目を上に向けて、悩むような顔をする。
その顔を見て、ふと頭をよぎるのは「どうして公立中学ではだめなんだろう」ということだ。東京の事情はよくわからないが、この海浜幕張地区の公立中学、打瀬中学は県内でも屈指の名門校で、そこに通わせたいから引っ越してくる家庭も多いのに。
ダイニングと続いているリビングのソファの方から子どもたちの声が聞こえてくる。ワンゲーム終わったらしく歓声が響き渡る。
眞由美はそちらに目をやった。
「照くん、元気そうでよかった」
そういってから、眞由美は、柔らかく優しい目をそっと茜の顔に向ける。
「あんまり、悩まないで」
茜は黙って頷いて、グラスのワインに口をつけた。気にかけてくれるのはありがたいと思わなくては。
「照くんには中学受験をさせないの?」
そう訊かれて茜は目を見開く。考えたこともなかったからだ。反射的に首を横に振ると、さきほど頭に浮かんだ疑問を訊きたくなった。
「眞由美さんは、どうして美優ちゃんに中学受験をさせるんですか? 公立の打瀬中学も勉強のレベルは高いって聞きますよ」
「だからよ。打瀬中学は学力が高い子が多いから、そうなると、高校受験に向けての内申点がとりにくいの。ましてやうちの美優じゃあ、内申点とれないでしょう。今だって、先生に鉛筆を投げつけちゃうんだから」
そういって眞由美はため息をついた。
「それに父親に似て、体育や音楽が不得意なのよ。ダンススクールでも照くんの足元にも及ばない感じでしょ。実技科目が苦手だから、中学受験を選ぶ子も多いわね」
「そういうものなんですか」
茜が通っていた大阪・堺の小学校で中学受験をするのは、ごく一部の勉強ができる子たちだった。最難関の灘や神戸女学院を目指していた。関東はちょっと感覚が違うのかもしれない。それとも、時代が違うのか。
「それに、小学校に乱暴な男子もいるでしょ。女子校に行かせたら、そういう子とは絶対に違う学校になるでしょ。私は、美優に伸び伸びと過ごさせたいの。それが、中学受験をさせる一番の理由かなあ」
”子どもに伸び伸びと過ごさせたい”、その想いは茜も同じだ。
「乱暴な子……ほら、確かパパが大学病院の内科医だっていう。あの子、海浜ゼミナールに入ったんだって。それもあって、うちはエックスにしたいなって」
眞由美は眉間に皺を寄せて言う。美優は活発な子なので、ときとして男子からは生意気だと反発を買うこともあるようだ。
「今、医者は自分の子どもは医者にしたがらないと聞くけど、あの家は例外なのかも。ああいう子は手に職をつけないとやっていけなさそうだものね」
「お医者さんにするためには、中学受験をしなきゃなんですか」
茜は素朴に頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「絶対にしなきゃってことはないけれど、国立医学部に入れるには、中高一貫校の方が有利なのよ。中高一貫は高校受験がない分、中学の頃から大学受験に向けて準備ができるから。とくに数学は先取りして早くに終わらせないといけないの」
眞由美は顔を横にふって、ふうと息を吐いた。
「うちのお嬢は医学部なんてまず無理だろうし、中学受験だって、ボリュームゾーン……渋幕合格にはほど遠い、普通の受験生になるんだろうけど。でも、偏差値が高くない学校の方が面倒見よかったり、授業に工夫があったりしてよかったりするのよ。そういう学校に入れれば安心でしょう。だから海浜幕張では半分が中学受験をするのよ」
「半分?! 」
「大手塾がそういうんだからちゃんとデータがあると思うわよ」
眞由美は諭すように視線を投げてくる。なんだか中学受験について考えていないことで責められているような気分になる。茜は茜で教育に興味がないわけではない。公文だって算数と国語をやらせている。うっすらと焦りを感じたせいか、急に目の中がごろごろする。休日はいつも裸眼で過ごすが、今日はパーティーなので、13.5ミリのブルーのカラーコンタクトを入れてきたのだ。
「ちょっと失礼します」と断って、洗面所で目の中の確認をする。問題はないようなので目薬を差して、しばらく目をつぶると落ち着いた。ダイニングに戻ろうとすると、廊下の途中の部屋のドアが開いていた。
物音がするのでそっと覗くと、子ども部屋の床で美優がアクセサリーのキットを開いていて、ビーズを手に取って眺めている。茜がプレゼントに選んだものだ。
ドアをそっとノックして、部屋の中に顔を突っこんだ。
「よかった。気にいってくれた」
美優は顔をあげて、笑顔で手招きをする。
部屋に入ると、学習机と立派な本棚がある。ベッドカバーや枕もみんな無地のベージュで統一されている。とても大人びたシンプルな部屋だが、床や机の上はプリントや漫画が散らばっている。
床に座りこむと、美優はビーズのひとつを茜の爪に乗せてきた。
「ほら、このビーズ、茜ちゃんのネイルと一緒の色」
純粋なピンクだった。青みも黄色みもないピンク色。どんな色の服にも合うからネイルはこの色にしている。
「ホントだ」
そう答えて、キットに目をやると、横に散らばっているノートやプリントが気になる。美容院で店の中を常に片付けているので、どこでもそうしたくなるのだ。つい、プリントを手にとると、「エックス 12月度入室・組み分けテスト」と書かれた問題用紙と答案用紙が重なっていた。美優は顔色を変えて、それを奪うように取り返した。
それから、少し泣きそうな顔になって、つぶやいた。
「エックスのね、入塾テスト、12月は落ちちゃったの。だからまた受けないと」
そうか、眞由美がエックスの入塾テストの話をしていたのは、一度受けて不合格だったからか。
「すごいきれいな字」
茜は、はしゃぐような声を出した。素敵な色のネイルをみつけたときのように。
「計算の式も超上手。絶対に次は受かるよ」
美優は顔を下げたままだ。茜が顔を覗きこむとそのまま言った。
「大丈夫だよ。公文だって照よりずっと前をやっているし」
「私は小さいときからやってるからよ。照くん、計算速いし」
「速いけど間違いも多いよ。ゆっくりちゃんと計算する方が絶対にいいよ」
美優はしばらく黙ってビーズを触りだした。それから、口を開く。
「ありがとう」
恥ずかしそうに下を向いたままで、ピンクの淡い色の粒を拾っている。まずは似た色で集めていった方がデザインしやすい。
茜が付録のアクセサリーの作り方の紙を拡げると、美優が覗きこんで、「これは私でも作れるかな?」と相談してくる。
利発な美優もこうやって見ると、まだ、幼い女の子だ。こんな子が塾に通って、受験勉強なんて信じられないと思う。
ビーズを通すワイヤーをほどいていると美優がこう言った。
「ひーくんも中学受験すればいいのに。そうしたら塾に行くときに、一緒に駅前のセブンイレブンに行けるし」
ひーくんというのは照のことだ。美優はまるで公園に遊びに行こうと誘うように、中学受験の塾に共に行きたいという。この街にいると、中学受験をするのが普通のことなのだ。自分がずいぶんと遠くの街に来ていることを、茜はしみじみと実感した。
中学受験の用語解説「ボリュームゾーン」
「ボリュームゾーン」通称「ボリュゾ」とは、
(イラスト:ぺぷり)
※記事の内容は執筆時点のものです
とじる
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