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大和政権とは?中学入試では朝鮮半島との関係が問われる

2019年8月29日 ゆずぱ

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中学受験の歴史の勉強を進めるなかで、政治の仕組みがわかりにくい時代があります。邪馬台国の卑弥呼の時代でもなく、天皇中心の政治がおこなわれていた時代でもなく、なんとなく中途半端でわかりにくいのが大和政権の時代です。オマケに、漢字の読み方が難しかったり、史料が少なく歴史学者のあいだでも議論が継続中であったり……、子供たちにとっては取っつきにくい単元のようです。

今回は、大和政権の時代をイラストを使ってわかりやすく解説します。実際の中学入試で問われるポイントも合わせて紹介しますので、ぜひ参考にしてください。

大和政権3つの基本知識

「大和政権」という言葉ですが、教科書によっては「ヤマト政権」とカタカナ表記されたり、政権ではなく「王権」や「朝廷」と表現されたりしている場合がありますが、これらは全て同じ意味です。(本記事では「大和政権」という表現で統一します)

大和政権を理解するうえで、とくに大切な3つの基本事項を解説します。この3つの基本事項を押さえると、多くの入試問題に対応可能です。

[1]大王と豪族の連合政権

大和政権を一言で表すと、「大王(おおきみ)と豪族の連合政権」と表すことができます。しかしながら、これだけ聞いてもピンとこないので、直前の邪馬台国や、直後の天皇中心の政治と比較しながら考えると理解がグッと深まります。下のイメージ図を見てみましょう。

邪馬台国は、卑弥呼という女王が30あまりの小国を従えていたと『魏志倭人伝』に記されています。一方、大和政権は、大和地方(現在の奈良県北部付近)の豪族たちが連合政権を成立させたと記録されています。その頂点に立っていた人が、大王です。

このような政治体制が、4世紀から7世紀半ばまで300年以上も続き、大王は何代も交代しました。後にこの大王たちのことを「天皇」と呼ぶようになります。このあたりがややこしいのですが、「いつからか天皇と呼ばれるようになった」と理解しておくだけで大丈夫です。

大王と豪族の連合政権は、645年の「大化の改新」のあとに天皇中心の政治が成立するまで続いたとされています。701年に「大宝律令」が成立されたあとは、天皇が政治をおこなう「朝廷」に二官八省が置かれ、さらには地方も朝廷が治めるようになりました。

大和政権の勢力範囲

5世紀後半には、大和政権は九州地方から関東地方まで、日本列島のほぼ半分を支配するまでに広がりました。重要なのは、勢力範囲を推定する根拠です。九州の江田船山(えたふなやま)古墳と、関東の稲荷山(いなりやま)古墳の2つの古墳の出土品から、大和政権の大王である「ワカタケル大王」の文字が見つかったことから、大和政権の勢力範囲が推定されています。

[2]氏姓制度

基本事項の2つめは、氏姓制度です。教科書に書かれた簡単な解説を読んでもなかなか理解が進まないと思うので、具体的なイメージで覚えるようにしましょう。

「氏(うじ)」とは、同族中心の集団に名前をつけたものです。いわゆる苗字(ファミリーネーム)のようなものとイメージしましょう。具体的には「蘇我氏」や「葛城(かつらぎ)氏」が挙げられます。まさに苗字ですね。そして「姓(かばね)」は、その家族に与えられるランクです。最高ランクは臣(おみ)、その次のランクは連(むらじ)です。

ポイントは、血縁関係の集団に身分(ランク)を与えているということです。つまり、この制度は「家系=身分」だったわけです。聖徳太子が「冠位十二階」を制定するまで、この「家系=身分」の身分制度が続くことになります。

[3]朝鮮半島との関係

基本事項の3つめは、朝鮮半島との関係です。中学入試でも問われる知識のひとつです。まず、「5世紀ごろの朝鮮半島は4つの国に分かれていたこと」「倭国(今の日本)はそのうち百済(くだら)との関係を深めていた」という2点をおさえましょう。そのうえで、4つの出来事を見ていきます。

この4つの出来事については、年号の並べ替え問題なども出題されています。年号も含めて、しっかりおさえましょう。

①404年:百済と組んで高句麗と戦う

「倭国は高句麗(こうくり)と戦って敗れた」という記録が残っています。関係を深めていた百済と組んで戦いましたが、高句麗に敗れました。

②478年:中国(宋)に使いを送る

高句麗をなかなか倒せなかった倭国は、大国の中国(宋)に朝鮮半島への進出に協力を仰ぐよう使いを送りました。

③527年:国造磐井(くにのみやつこいわい)の乱

朝鮮半島には直接関係のない倭国内の争いです。朝鮮半島へ出兵しようとした大和政権軍を、九州の豪族磐井が抑止に入って争いとなりました。

④538年:百済より仏教が伝わる

関係を深めていた百済から、仏教以外にも、儒教や漢字などの大陸文化が倭国に伝わりました。

中学入試における「大和政権」の出題傾向

中学入試で実際に出題された大和政権の問題をもとに、出題傾向を解説します。

[1]朝鮮半島との関係

近年の入試問題を分析すると、大和政権の時代に関する問いは、「朝鮮半島との関係を理解しているか」がとにかく問われています。2018年に実際に出題された正誤問題(一部改訂)をもとに、確認してみましょう。

「ア」は、まさに大和政権の説明そのものですね。「イ」は高句麗との戦いを指しています。高句麗との戦いに向けて倭国が組んだ国は、もちろん百済です。「ウ」は百済より伝わった大陸文化のひとつですね。そのため、「エ」が誤りとなります。関係を深めたのは新羅(しらぎ)ではなく百済ですね。

[2]証拠が残る古墳

大和政権の勢力範囲を推定するための証拠に関する問題も、出題されます。大和政権の時代は、日本国内の文献がほぼなく、古墳の出土品から当時の様子を推定しています。

「ワカタケル大王」の文字が見つかった古墳は2箇所ですね。九州の「江田船山古墳」、そして関東の「稲荷山古墳」です。今回は関東地方の古墳を問われていますので、(1)の答えは「稲荷山古墳」となります。

稲荷山古墳の場所は、現在の埼玉県行田市になりますので、(2)の答えは②です。ちなみに①は岩宿遺跡、③は大森貝塚、④は地磁気逆転の地層(チバニアン)の場所です。

大和政権はイメージしながら押さえよう

大和政権の時代は、弥生時代の卑弥呼体制と、飛鳥時代の天皇体制のあいだに挟まれています。中途半端な時期のため、子供は取っつきにくいイメージをもってしまいます。今回紹介した3つの基本事項を、イメージしながら押さえていきましょう。

※記事の内容は執筆時点のものです

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