連載 「自分のやりたい!」がある子はどう育ったのか

10年間の不登校を経て高校生で起業、国立大学に進学。不登校は不幸じゃない|「自分のやりたい!」がある子はどう育ったのか

専門家・プロ
2021年5月31日 中曽根陽子

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AIが登場し、人間が果たす役割が変わっていこうとしています。「いい大学、いい会社に入れば安泰」という考え方が通用しなくなっていることは、多くの方が感じているでしょう。子どもたちが、しあわせに生きていくためには、どんな力が必要なのか? 親にできることは? この連載ではやりたいことを見つけ、その情熱を社会のなかで活かしているワカモノに注目します。彼らがどんな子ども時代を過ごしたのか。親子でどんな関りがあったのか。「新しい時代を生きる力」を育てるヒントを探っていきます。

今回の主人公は10年間の不登校を経験した後、高校3年生で起業した小幡和輝さんです。株式会社ゲムトレの代表取締役社長として活躍しながら、「#不登校は不幸じゃない」というスローガンを掲げて、不登校の子どもたちの孤立や偏見をなくす活動を行っています。小幡さんに幼少期から現在に至るまでのストーリーと、不登校についての思いを伺いました。

小幡和輝さん

学校で「なぜやらなければならないか」の答えをもらえなかった

小幡さんが不登校になったのは、小学2年生の2学期の終わり頃でした。

幼稚園時代から好きなことと嫌いなことがはっきりしていた小幡さん。お遊戯会で人前に出たり、逆上がりの練習をやらされるのは嫌で、砂場で遊んだり自由に作品を作るのが好きな子供でした。でも、幼稚園では好きなことをあまりやらせてもらえず、嫌なことを強要されることがしばしば。そういった環境に、幼いながらも違和感を覚えていたと言います。

小学校に入ると、そうした違和感がさらに強まっていきます。授業の好き嫌いもありましたが、それよりも強烈だったのが給食の好き嫌いでした。味付けが合わず、特に牛乳が飲めない。小幡さんの牛乳嫌いは、頑張ってどうにかできるレベルを超えるほどで、吐き出しては我慢して飲む有り様だったのです。

苦痛で仕方ない。それなのに、先生からは牛乳を飲むように指導される。小幡さんが先生に理由を尋ねると、先生は「栄養バランスのため。残すのはもったいないから」という答えだったそうです。「牛乳じゃなくて、ヨーグルトでもいいし、ほかに飲みたい人がいればあげればいいと思う……」と言うと、「屁理屈ばかり言わずに、黙って言うことを聞きなさい」と注意されたそうです。疑問を投げかけただけなのに、向き合ってもらえず、小幡さんの中で不信感が募っていったと言います。

「食物アレルギーの子は牛乳が飲めませんよね。もちろん飲まなくていいし、飲んではいけないのだと思います。ところが嫌いだからという理由になると、全然許されなかった。吐き出しながら牛乳を飲んでいてもです。それが疑問でした。疑問にちゃんと答えてくれず、納得できなくて。あのときは辛かったですね」(小幡さん)

父親は中学校の先生。子どもながらに気を使い、学校生活を頑張っていたけれど……

小幡さんのお父さんは中学校の先生でした。親が教師だったので、子どもなりに親の顔色を見ながら頑張って小学校に通っていたと言います。学校に不信感を持ちながらも、なんとか小学校生活を送っていましたが、小さな「嫌」がどんどん積み重なり、限界に達したのが2年生の夏休み明けでした。

学校が楽しくなくて、休みがちになる。すると「ズル休みだ」といじめられてクラスで居場所がなくなる。家で「学校に行きたくない」と訴えても、親から「行きなさい」と怒られる。どこにも居場所がなく、毎日が楽しくない悪循環に陥っていきました。そんな葛藤と親とのバトルが3ヶ月ほど続いた後、同級生からのいじめがきっかけとなり、とうとう親から「学校に行かなくていい」と言ってもらったのです。小幡さんは当時の親子関係を次のように振り返ります。

「お母さんは自分寄りの立場だったけれど、お父さんの仕事や立場があるから遠慮していた気がします。お父さんは『勝手にしなさい』という感じでしたね。親から『学校に行かなくていい』という言葉をもらえたときは、ホッとして、生きた心地がしました」(小幡さん)

そして2年生の2学期が終わる頃。学校に通わなくなったのです。

不登校後 徐々に元気に。しかし、親子関係での葛藤が続く

小幡さんには近所に住む5歳年上のいとこがいて、その子も不登校になった子でした。そして週3回、午前中にその子と一緒にフリースクール(適応指導教室)に通うことになったのです。スクールには同じく不登校になった2~3歳年上の子たちがいて、卓球やバドミントン、囲碁、カードゲームなどをして楽しく過ごしていました。小幡さんは学校で強制的にやらされる体育の授業は嫌いだったけれど、運動が嫌いなわけではなく、「好きに遊んでよい」という環境でやる卓球やバドミントンなどは楽しかったのです。

放課後は親から言われて水泳、サッカー、剣道に通っていました。でも小幡さんは、それが「嫌だった」と言います。それでも、当時は親に学校に行かないことを認めてもらったので、他のことはがんばらないといけないかな、という気持ちで通っていたそうです。誰かに拘束されたり、強制されたりするのが嫌いだった小幡さんに対して、親の出すカードは外れていたのです。自分で決めて自分で選べないのが嫌――。小幡さんが、親との関係で葛藤する時期は続きました。

ゲームで友達が家に遊びに来るようになって、親も変化

不登校になって最初の1年は、父親とほとんど口をきかなかったそうです。そんな小幡さんを救ったのが、ゲーム。両親に買ってもらったゲームで、フリースクールの友達と家で遊ぶのが楽しみでした。

「両親からは『ゲームばかりするな』と言われていましたね。でも、不登校になってからの方が、家に遊びにくるような友達もできたし、外にも出るようになりました。そういったことに親も気づいたんだと思います」(小幡さん)

親の常識とは違う世界でわが子が輝いている。そのことを受け入れるのに時間がかかったのでしょう。小幡さんが変わっていく様子を見て、両親は徐々に何も言わなくなりました。

授業を受けない中学校生活。囲碁部での全国大会出場

小幡さんの不登校は小学校卒業まで続きます。しかし6年生の時の修学旅行には参加したそうです。理由は当時ゲーム『信長の野望』にハマっていて、京都を見たかったから。学校も小幡さんに別行動をさせてくれたそうです。

「その頃になると、ほかに居場所があって楽しかったんで、小学校のクラスの子のことは気にならなくなってましたね。京都を見たかったんで行きました」(小幡さん)

中学進学後も授業には参加せず、所属していた囲碁部の活動だけ参加。囲碁は全国大会にも出場し、校内に名前が張り出されるほどの実力でした。囲碁をやってみて、学校でも評価されたことを「多少、気持ち良かった」と言います。当時の小幡さんは囲碁のほかにゲームの実力も立派で、全国大会に出る腕前でした。ところが、周囲の反応は囲碁とゲームで異なったものだったのです。

「まったく学校に来ていない小幡が、全国大会に出ているという話題に周囲はザワついてました。ただ、囲碁は“すごい”と言われるけれど、ゲームで全国大会に出ても褒められないんです。おかしいなって感じました」(小幡さん)

ゲーム大会で優勝。運営を任されたことから新たな扉が開いた

小幡さんはゲーム大会での活躍で、新たな世界を開くことになります。中学2年生のときでした。フリースクールでカードゲームが流行っていて、小幡さんはそのゲームが、とても強かったのです。周りに勧められて参加した大会では、社会人もいるなか和歌山県で3位に。手応えを感じた小幡さんは、そこから本気でゲームを研究し、練習に励みました。そして次の大会で見事優勝。和歌山でトップクラスになり、県では有名な存在になっていました。

そこからゲーム大会の主催者に頼まれて、大会運営を手伝うようになります。大会運営ではトーナメントの管理や対戦表の作成などにあたりました。どうしたら大会がはやく運営できるか――。そうしたことを考えて動くうちに、どんどん自己肯定感が高まり、自分が不登校であることをどうでもいいと思えるようになったのです。小幡さんは、その頃の心境の変化について「誇れるものができて吹っ切れた」と話します。

中学卒業後は定時制高校に進学。高校で中学レベルの勉強から始めて、それまで遅れを取り返すため頑張りました。昼間、アルバイトをしてから学校に通う日々でしたが、高校生活はなんと皆勤賞。高校3年生のときには起業してSNSのプロモーション企画やイベント事業などを行い、和歌山県の地方創生プロジェクトに関わるなど、活動の幅をさらに広げました。学校の成績も、評定平均4.8を取るほどに。そして、和歌山大学に推薦入試で合格します。

その後、47都道府県すべてから参加者を集めて、世界遺産の高野山で開催した「地方創生会議」がTwitterのトレンド1位になり、ダボス会議を運営する世界経済フォーラムから、世界の若手リーダー『Global Shapers』にも選出されるなど、活躍していくのです。

こうした活躍の土台になっているのが、不登校時代に学校以外の場所で出会った人や体験した出来事から学んだことでした。

全国からワカモノを集めて、開催した地方創生会議でリーダーを務めた

学校に行けなくても、居場所や誇れるものがあればいい

小幡さんは自身の経験から、不登校になって心を閉ざしている子に対して、「学校に行かなくなった後、居場所や誇れるものがあることが大事だと伝えていきたい」と思うようになりました。そして、その思いを行動に移します。「#不登校は不幸じゃない」というスローガンを掲げ、全国の不登校経験者や親御さんと一緒に日本中でイベントを開催。不登校に対する偏見をなくしていくための活動をしていきました。

「僕は不登校になったあと、ゲームのおかげでたくさんの友達ができました。でも、別にゲームじゃなくていいんです。要は、子どもたちには自分の好きなことを通じて友達の輪を広げて欲しい。そして好きな居場所をつくって欲しいと思っています。親に対しては、学校に行くことが善で、行かないことが悪という価値観を取り払ってもらいたいです。一度学校でやっていることを分解して考えてみて欲しいと思います。学校でなければできないことが減ってきた今、子どもたちを苦しめているのは、不登校に対する社会の偏見や、学校に行くべきというプレッシャーなんです」(小幡さん)

「#不登校は不幸じゃない」を掲げて全国を回った

ゲーム=悪という偏見をなくしたい

今、小幡さんはゲームが上手くなりたいという子どもたちのために『ゲムトレ』という会社も立ち上げています。ゲームをネガティブなものと捉える考え方に対して、自身の経験を踏まえ、次のように話します。

「僕はゲームで救われました。でも、実は部屋の中で一人でやるゲームは好きじゃないんです。コミュニケーションツールとして誰かと一緒にやるほうがいいと思っています。ゲーム依存という言葉が取り沙汰されますが、プレイ時間と依存の相関関係はないとしたうえで、コミュニケーションツールとしてやる分には現実社会との乖離はないし、ゲームで鍛えられる能力もたくさんあると思っています。だから頭ごなしにゲームが悪だと決めつけないでほしい」(小幡さん)

ゲームに対する偏見や思い込みをなくして、野球やサッカーと同じ地位を確立することを目指していくと抱負を語ってくれました。

取材を終えて

私が初めて小幡さんを知ったのは、高濱正伸さんや茂木健一郎さん、葉一さんとのトークセッションでした。10年間の不登校で、ゲームに没頭した時間は30,000時間。そんな事前の情報から想像していた人物像とはまるで違う、コミュニケーション力に長けた、頭の良い青年という印象の小幡さんにすっかり魅了され、ぜひ取材で話を聞いてみたいと思いました。

取材でお会いした小幡さんは、とてもフラットで、気負いもなく、自分の体験を率直に話してくれました。許容範囲がある程度広いと思っている私でも、ゲームに没頭=真っ暗な部屋でゲームの世界にのめり込む引きこもりという、ステレオタイプのイメージが抜けていないことを反省したのです。

印象的だったのは、「苦しかったのは”学校に行かなくてはならない”と葛藤していたときで、不登校になってからのほうが、友達もできたし、断然幸せになった」という言葉でした。誰にとっても大切なことは、自分が安心できる居場所があることなのです。小幡さんが大きく飛躍するきっかけになったのは、ゲーム大会の優勝を経て大会運営を任されたことですが、そのことを通して自己肯定感が高まり、「やりたい!」気持ちが自らを突き動かして行動した。その結果、高濱正伸さんや茂木健一郎さんという方からも応援されるという好循環を生み出していったのでしょう。

学校に行かないと勉強できないという時代ではなくなった今、あらためて学校の意味が問われています。不登校だったとしても、やる気になったら高校3年間で十分取り返すことができるし、国立大学にだって入れる。そういう事例を聞けば、多くの不登校児の親たちは励まされることでしょう。しかし、それ以上に大切なのは、子どもがありのままの自分を認めてもらえる場所や人を見つけられるかどうかです。今回、親御さんのお話を聞くことはできませんでしたが、きっと葛藤しながらも小幡さんのことを理解し、受け入れようとしていたのではないかと想像します。それは彼を見ていて思ったことです。

不登校は不幸じゃない――。そう思えるか否かは、彼の言うように、居場所があるかと、自分のやりたいことを見つけていくプロセスを見守ってくれる人の存在があるかどうかなのだと教えられました。

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