連載 「自分のやりたい!」がある子はどう育ったのか

「アフリカに対するマイナスイメージを変えたい」アフリカに恋した高校生の夢を実現するパワー|「自分のやりたい!」がある子はどう育ったのか

専門家・プロ
2021年7月01日 中曽根陽子

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AIが登場し、人間が果たす役割が変わっていこうとしています。「いい大学、いい会社に入れば安泰」という考え方が通用しなくなっていることは、多くの方が感じているでしょう。子どもたちが、しあわせに生きていくためには、どんな力が必要なのか? 親にできることは? この連載ではやりたいことを見つけ、その情熱を社会のなかで活かしているワカモノに注目します。彼らがどんな子ども時代を過ごしたのか。親子でどんな関りがあったのか。「新しい時代を生きる力」を育てるヒントを探っていきます。

今回の主人公はメディアが伝えないアフリカの魅力を伝える団体『アフ高』を立ち上げた上野駿介さん(現在・大学1年生)と母の美穂さんです。

駿介さんは高校生の時、ある人物との出会いをキッカケにアフリカに恋をして、「日本人が持つアフリカのマイナスイメージを変えたい!」と活動を始めました。HONDAの社会貢献活動『The Power of Teen』――ワカモノの夢実現に向けたチャレンジへの一歩を応援するプロジェクト―― では最終プレゼンターにも選ばれた青年です。

「貧困・紛争というステレオタイプなアフリカのイメージを、カラフルな世界観に変えられたらどんな事が起こるかワクワクする」という駿介さん。アフリカとの出会いとその後、そして子ども時代について聞きました。

初めての海外旅行。ウスビ・サコさんと衝撃的な出会い

駿介さんがアフリカに興味を持つキッカケになった出来事は、高校1年生の春休みの北京旅行でした。それまで一度も海外に行ったことがなかった駿介さんは、高校の友達の多くが海外での体験について話すことに刺激を受け、「自分も行ってみたい」と当時親戚が駐在していた北京に一人で出かけたのです。旅先の北京で出会ったのが、京都精華大学学長のウスビ・サコさんでした。サコさんの奥さまと、駿介さんの親戚には仕事の付き合いがあり、サコさんもそのとき北京に滞在していたのです。

ウスビ・サコさんはアフリカのマリで生まれで、国費留学生として北京に留学後、さまざまな苦労を経て来日します。京都大学大学院の博士を取得され、日本国籍を取得した方です。そしてアフリカ系として初めて、日本の大学の学長となった方でもあります。

ごく普通の高校生だった俊介さんは、サコさんと食事を共にする中で、マリ人から見た日本の話。空気を読む社会での、異文化コミュニケーションの難しさの話など、さまざまな話を聞きました。特に印象に残ったのが「君みたいなニュージャパニーズが活躍していく時代だ。もっといろいろなことを知ってほしい」というメッセージでした。駿介さんはこの時の体験を「頭を殴られるような感触だった」と話します。

京都精華大学学長 ウスビ・サコ氏との出会い

サコさんとの再会。アフリカへの好奇心に火が付いた

北京旅行から帰った後、駿介さんはサコさんやマリのことを調べました。「サコさんとまた話したい」という思いが強まった駿介さんは、渡された名刺を頼りに「夏休みに単身赴任中の父を訪ねて関西に行くので会えないか」と、サコさんにメール連絡。日本で再び会う約束を取り付けたのです。

再会したサコさんが駿介さんに紹介してくれたのが、西アフリカの研究者、清水貴夫さんと中尾沙季子さんでした。大学の学食で4人、食事をしながらアフリカについて話をしました。アフリカには54の国があり、東西南北で文化も全く違うことなどを知ってとても驚いたと言います。アフリカのことをもっと知りたいという思いが一層強まったのです。

その後、駿介さんは自分でアフリカのことを調べる日々を過ごします。しかし調べて手に入る情報はネット情報や旅行記、学術記事が中心でした。駿介さんは「もっと生の声を聞きたい」と思うようになります。「今のまま調べるよりも、アフリカと取引している企業から話を聞くほうがよいかも」――そう思った駿介さんは、10社以上に連絡。そのうちのひとつJETRO(日本貿易振興機構)から紹介されたのが、第7回アフリカ開発会議(TICAD7)でした。会議のサイドイベントに出向くなど、高校2年生の夏にはアフリカの虜になっていたのです。

初イベント開催。『アフ高』立ち上げ

高校2年生の2学期が始まり、駿介さんはマイブームのアフリカについて学校で熱く話をしました。しかし学校の友人は誰も興味をもってくれません。「アフリカのことをもっと話したい」という思いが止まらない駿介さんは、Twitterで情報発信をしていました。そこである大学生と交流を始めます。

その大学生が小原涼さんでした。小原さんは北陸高校2年生の時に、ファッションに特化したインフルエンサーマーケティング事業と、デザイン事業を行なう『株式会社RUProduction』を設立し注目を集めた人物です。文部科学省が展開する『トビタテ!留学JAPAN』の「#せかい部」の初代部長でもあります。

駿介さんは小原さんから、同じく「トビタテ!留学JAPAN」に参加した高校生で、単身アフリカに行った金山葉織さんという女の子の話を聞き、すぐに紹介してもらいました。金山さんからマサイ族の家に行って泊まったこと、バックパッカーで東南アジアを回った経験、カンボジアの孤児院を訪ね、自分の無力さを感じたこと、自分の行くべき場所はどこか探してアフリカに渡ったという経験談を聞くと、二人は「もっとアフリカのことを知ってほしい!」という思いで意気投合します。そして『大人も知らないアフリカを知ろう~アフリカ人留学生×日本人高校生~』という高校生向けイベントを開くことにしたのです。

アフリカ人留学生と日本人高校生が熱く語り合ったイベント

初めて開催したイベントは、参加予定の留学生の欠席などで波乱含みの展開でしたが、それでもなんとか開催にこぎつけました。駿介さんは初の司会にも挑戦し、イベントは大成功を納めます。普段なかなか会うことも関わる機会もないアフリカ人留学生と日本の高校生が、グループワークを通して環境・教育の問題について話し合いました。その結果、参加したほとんどの高校生から「アフリカに関心を持つきっかけになった」「それまでの貧困の大陸・紛争といったネガティブなイメージが、アフリカ布のような明るく虹色のイメージに変わった」という声があがったのです。

やりがいを感じた駿介さんは「もう一度やりたい!」と『アフ高』という学生団体を立ち上げます。引き続きイベントもやっていこう!―― そう思っていたところでした。新型コロナウイルス感染症の影響で、イベント開催ができなくなってしまったのです。

緊急事態宣言下で連続22日間のオンラインイベント開催

しかし、駿介さんは諦めませんでした。イベントをオンラインに切り替え、緊急事態宣言中の3月11日から4月2日まで毎日、アフリカで活躍している日本人を招くオンラインイベントを開催しました。22日間で述べ183人の高校生が参加したのです。

駿介さん自身も、このオンラインイベントで「新しいアフリカを知った」と言います。心境にも変化が生まれました。それは「友達に話したくなるアフリカを知るという目的は達成したけれど、今後は自分の知識を提供しながら、高校生が話す場をつくろう」というものでした。月に1・2回、高校生限定でアフリカについて知る機会をつくった結果、運営メンバーになりたいという人も現れて、団体としても発展していったのです。

今は後輩たちが『アフ高』を運営し、大学生になった駿介さんはサポーターとして関わっています。駿介さんの次の夢は「コロナが落ち着いたら、とにかく現地アフリカに行くこと」その時のために今はインプットの時期と定めて、アフリカの文化や歴史、英語やフランス語の勉強をしています。

子どもが自分の知らない世界とつながることへの不安もあった

駿介さんは「親にはほとんどアフリカの話をしなかったです。心配をかけたくなかったし、止められるのが怖かったから」と言います。どんなお子さんだったのでしょうか。母の美穂さんに伺いました。

まず、駿介さんがアフリカに夢中になっていく様子を見て、美穂さんはどう思っていたのかを聞くと「知らない人と名刺交換してくるので、びっくりしました。知らない人とどんどん繋がって大丈夫なのかという心配と、親の周りにいない種類のすごい人たちばかりだったので、息子が失礼なことをしていないか気になりました」と振り返ります。

高校時代から「アフリカに行きたい!」と熱望していた駿介さんに対しては、次のように語ります。

「親としては、やはり大学には行ってほしかったので、『今アフリカに行くべき時ではない』と抑えていました。病気とか心配でしたし。正直アフリカにあまりいいイメージを持っていなかったので」(美穂さん)

しかし、夢中になって取り組んでいる駿介さんの様子を見て、口出しはせずに見守ろうと思ったそうです。HONDAの『The Power of Teen』のプレゼンは隣の部屋で聞いていたという美穂さん。大学進学を決める時期だったので、心配しつつも、活動の幅を広げ、外部大学の受験にも前向きに挑戦している様子を見て、応援しようと思うようになったと言います。

『The Power of Teen』のシェア夢発表でHondaJetに搭乗

小さい頃から社交的で、ハマると集中力を発揮するタイプ。心がけたのは、周囲に流されないこと

自分でも「コミュニケーション力は高いと思う」と話す駿介さんですが、母・美穂さんからは、こんなエピソードが。

小学校低学年のとき、親戚の結婚式でキッザニアで作った名刺を配って挨拶して回り、自分から望んでスピーチもしたそうです。小学校でもクラスのリーダーを任されるなど、積極的な性格だったといいます。

小さい頃に美穂さんが大事にしていたのは、規則正しい生活を送ること。周囲は教育熱心な家庭が多かったそうですが、巻き込まれないように心がけ、毎日公園で外遊びをして身体をつくることを大事にしていました。習い事も詰め込まず、ベビースイミングから始めたスイミングを週1回9年間続けたほかは、幼稚園の延長保育として始めたスポーツクラブを小学校4年生まで7年間続けただけ。

駿介さんは小さい頃からレゴなどのブロック遊びが大好きで、しかも型通りにつくるのではなく、自分でイメージした街を作って遊んでいました。小学校低学年のある時期は折り紙にハマり、朝から没頭して折り紙をしていたこともあるほど。ハマるとすごい集中力を発揮するタイプだったようです。

もうひとつのエピソードが新聞作りです。小学2年生から6年生まで、家で話題になったことなどをまとめた「上野新聞」を作って祖父母に送っていたのだそうです。最初はコラージュ(貼付画)を習い始めたお母さんが、離れて暮らす両親に様子を知らせるために作っていたのですが、そのうち駿介さんも一緒に作るようになりました。HONDAの『The Power of Teen』のプレゼン資料も、すごく表現力があると感じたのですが、そんな経験が活きていたのではないでしょうか。

親子で作ったコラージュと、祖父母に送っていた「上野新聞」こうした経験がプレゼン資料作りに生きているのでは

HONDAに提出したシェア夢シート

元々学校の先生だった美穂さんは、駿介さんが5年生のときに産休明けの先生の補講として復職します。駿介さんが中1の頃からは本格的に復帰し、現在も仕事を続けています。

夕方まで一人で過ごさせることが心配で小5から塾通いを始めますが、中学受験はしないという駿介さんの意思を尊重し、高校受験で大学付属校に進学。受験も学校選びも本人の意思を尊重した結果でした。

「思春期に入る頃は私が自分のことで精一杯で、子どもに手がかけられませんでした。でも丁度良い時期にいい距離を保てたのが良かったかもしれません」と振り返ります。

駿介さんが大学生になった今、「何かあったときには話ができる場所でいたい」と言う美穂さん。世界への扉を開き、飛び出そうとしている息子のことを嬉しくもあり、ちょっと寂しくもあり、でも応援しようとしている。とても素敵なお母さんでした。

母・美穂さんと一緒に

取材を終えて

「最終学歴より最新学習歴の更新」を提唱されている本間正人さんが主宰する「調和塾」というイベントで、初めて駿介さんに会いました。アフリカの魅力を嬉しそうに話す駿介さんの笑顔が印象的で、もっと話を聞きたくなりインタビューを申し込みました。

話を聞くと、ごく普通の高校生がサコさんと出会ったことで心を揺さぶられ、人生の扉が開き、時計が動き始めた様子が生き生きと伝わってきました。印象に残ったのが「人は知らなかったことを知ると、必ず好奇心を抱く」という言葉でした。

駿介さんの話を聞くうちに、自分もアフリカを一括りにして、ステレオタイプな捉え方をしていたと気づかされました。思い込みは怖い。できるだけ物事を俯瞰してみることが大事だと思いながら、関心がないことはスルーしてしまいがちです。未来を生きる子どもたちにとって、アフリカをよく知ることは可能性を広げることを意味するのだと思います。

駿介さんが今後どんな道に進んでいくのかはわかりませんが、純粋にアフリカが好きという気持ちに正直に向き合い、諦めずに歩み続けたら、きっと自分のやりたいことにたどり着くと思います。「挑戦するのであれば、その分野で一番になるくらいの想いを持って取り組んでいきたい。夢を持ち続けることで、いつかは叶えることができる」という駿介さんの言葉からそう確信しました。それもお母さんの無条件の愛情によって育まれた土台があってこそなのではないでしょうか。

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※記事の内容は執筆時点のものです

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