
華族制度とは? 5つのポイントとイラストでわかりやすく解説!
小学校の歴史の教科書では、「身分制度がどう変化してきたか」も重要なテーマとして扱われています。時代ごとにさまざまな身分制度が登場しますが、なかでも理解が難しいのが「華族制度」かもしれません。
たとえば飛鳥時代に身分が高かった豪族としては「蘇我氏」や「中臣(なかとみ)氏」などを思い浮かべることができるでしょう。江戸時代に身分が高かった武士としては、「徳川家」や「毛利家」などの大名が思いつく子も多いはずです。ところが「明治時代に身分の高かった華族は?」と聞かれると、ひとりも名前が出てこないかもしれません。筆者の子供に質問してみても、華族の人物はすぐに思い浮かべることができないようでした。
でも、大丈夫。これから紹介する5つのポイントを押さえれば、華族制度に対しての“モヤモヤ”をスッキリと解消できますよ。
Contents
5つのポイント
華族制度について基本からしっかりと理解できるように、まずは次の5つのポイントに分けてお伝えします。
5つのポイント
- 身分制度を理解しよう
- 皇族の次に高い身分だった
- 5つのランクに分かれていた
- 3つの特権(財産/政治/教育)
- 3つのルート
ポイント[1]身分制度を理解しよう
華族制度は、明治時代につくられた身分制度のひとつです。ところで、身分制度とはそもそもどのような制度でしょうか? 辞書で引いてみると難しい言葉が並んでいるので……、まずは次の特徴をもつ制度を「身分制度」としてざっくり理解しておきましょう。
身分制度とは?
- 高い身分と低い身分が存在する
- 身分は生まれながらにして決められてしまう
- 自分の努力では身分を変えることができない
身分制度には「高い身分」と「低い身分」が存在します。高い身分の人はたくさんの特権をもつ一方で、低い身分の人はほとんどもっていませんでした。
そして、身分は生まれながらにして決まります。そのため親の身分が低ければ、その子の身分も自動的に低くなってしまうのです。また、基本的には自分の努力で身分を変えることもできませんでした。
ポイント[2]皇族の次に高い身分だった
華族は、皇族の次に高い身分です。しかも、ごく一部の人にしか与えられない身分でした。さらには多くの特権も与えられていたので、まさに“超特権階級”といえるような人たちだったのです。
下の図は、明治初期の日本の人口構成です。
明治初期の日本全体の人口は、およそ3300万人。そのなかで、華族はわずか3000人ほどしかいませんでした。これは、当時の人口のおよそ0.01%ほどです。華族が本当に少なかったことがわかりますね。
ポイント[3]5つのランクに分かれていた
3000人ほどしかいなかった華族ですが、実はさらに細かく5つのランク(爵位)に分かれていました。
↑高いランク
公爵(こうしゃく)
侯爵(こうしゃく)
伯爵(はくしゃく)
子爵(ししゃく)
男爵(だんしゃく)
↓低いランク
ちなみに「男爵」は華族のなかでみると最下位ですが、士族や平民と比べればとてつもなく高い身分でした。
ポイント[4]3つの特権(財産/政治/教育)
華族にはさまざまな特権が与えられていましたが、特に次の3つは代表的な特権といわれます。
華族の特権(一部抜粋)
- 財産
- 政治
- 教育
財産
華族の財産は保護され、「ほかの誰からも差し押さえられない(奪われない)」という特権がありました。そしてその財産は、親から子へと引き継がれていきました。
政治
明治以降、日本でも議会が開かれ、国民の代表者が選挙で選ばれるようになりました。しかし華族は、選挙に勝たなくても政治に参加できたのです。華族をはじめ、選挙で選ばれていない議員で構成されていた議会は「貴族院」と呼ばれ、選挙で選ばれた人たちの議会は「衆議院」と呼ばれました。それぞれの違いを押さえておきましょう。
教育
華族の教育のために「華族学校(現在の学習院)」がつくられました。華族は試験を受けなくても入学でき、進学を約束されていました。つまり“無条件”で教育を受けられたのです。
ポイント[5]3つのルート
華族の身分をもつ人は、大きく次の3つのルートでその地位についたとされています。
華族になったルート
- 身分の高い「公家」だった
- 身分の高い「武士」だった
- 国家に大きく貢献した
1、身分の高い「公家」だった
江戸時代、身分の高い「公家(くげ)」だった人の多くは華族となりました。公家とは、朝廷に仕えていた人たちのこと。たとえば、明治維新で活躍した岩倉具視(ともみ)の子孫にも華族の身分が与えられています。
2、身分の高い「武士」だった
江戸時代に身分の高い「武士」だった人も華族となりました。具体的には徳川家の一族や、藩主を担っていた大名たちです。最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)も明治以降は華族となりました。
3、国家に大きく貢献した
江戸時代の身分に関係なく、国家に大きな貢献を果たした人たちにも華族の身分が与えられました。たとえば明治政府の初代内閣総理大臣・伊藤博文、そして大久保利通(としみち)や木戸孝允(たかよし)の子も華族でした。
中学入試で押さえておきたい3つの知識
ここまで、華族を理解するための5つのポイントを紹介してきました。おおよそのイメージはつかめましたか?
では次に、中学入試に向けた“受験力”をつけるうえで押さえておきたい3つの知識を紹介します!
中学入試で押さえておきたい知識
- 2つの大改革
- 華族制度が生まれた背景
- 華族の代表的な10人
ちなみに中学入試を分析すると、華族制度が生まれた背景に注目した出題が多いことがわかります。華族の人物名についての出題もあるため、これからお伝えする内容を踏まえ、受験本番に活かせる知識を身につけていきましょう。
【1】2つの大改革
華族制度は「明治維新」によってつくられ、「戦後改革」で廃止されました。順を追って、当時の時代の流れを見ていきましょう。
江戸時代:武士の身分が高かった
皇族と公家をのぞけば、江戸時代は武士の身分が圧倒的に高い時代でした。一方で、百姓や町人などの身分は低かったのです。ちなみに武士には、彼らに無礼をおこなった百姓や町人などを刀で切りつけても処罰されない「切捨御免(きりすてごめん)」という特権もありました。
明治時代:万人平等を目指した
江戸時代の身分制度は決して近代的とはいえなかったため、明治維新では “皇族以外はみな平等“とする身分制度が考えられました。しかし江戸時代まで高い身分だった公家や武士からの反発もあり、結局はうまくいかなかったのです……。詳しくは、この先の「[2]華族制度が生まれた背景」で説明します。
終戦後:身分制度が廃止された
第二次世界大戦が終戦した後、GHQにより大改革がおこなわれました。身分制度にもメスが入れられ、華族と士族が特権階級を握っていた身分制度は、戦後改革によって廃止されることになったのです。結果として、皇族以外の万人平等が実現しました。
[2]華族制度が生まれた背景
明治維新では万人平等を目指しながらも、実際には平等とは名ばかりの身分制度ができあがりました。では、そもそもどうして華族や士族という身分ができたのでしょうか? この背景を理解することは中学受験では非常に大切なため、一緒に見ていきましょう。
ずばり、キーワードは「中央集権化」です。
明治維新で進められた「大政奉還」や「版籍奉還」は、各地方の藩が江戸時代まで担っていた政治や領土、人民をすべて中央の政府に返すという政策でした。こうした一連の政策が中央集権化と呼ばれますが、各藩から猛反発がくることが予想されたため、藩のトップの大名に「華族」という特権階級を与えることで、中央集権化をなんとか穏便(おんびん)に進めようとしたのです。そして一般の武士についても同様に、反発が起きないように「士族」という階級を与えました。
つまり「藩からの反発を和らげるために華族や士族という階級をつくった」という事情が背景にあったのですね。しかし反発は根強く、明治維新では万人平等の世は訪れませんでした。
[3]華族の代表的な10人
華族の代表的な人物として知られているのは、その多くが幕末から明治にかけて活躍した政治家です。
医学の分野で貢献した「北里柴三郎」、郵便制度の仕組みを築いた「前島密(ひそか)」、実業家として大きな活躍を果たした「渋沢栄一」など、政治以外の分野で国家に貢献した人にも華族の称号が与えられた点にも注意しておきましょう。
まとめ
身分制度のなかでも特にイメージしにくい華族制度ですが、次の5つのポイントを押さえるとスッキリ理解できます。
5つのポイント
- 身分制度を理解しよう
- 皇族の次に高い身分だった
- 5つのランクに分かれていた
- 3つの特権(財産/政治/教育)
- 3つのルート
中学入試では、華族制度がつくられた背景についての設問も頻出です。明治維新では万人平等を目指しながらも、中央集権化を押し進めようとした結果として華族という身分がつくられた、という流れをしっかり理解しておきましょう。
※記事の内容は執筆時点のものです
とじる
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