【歴史】太閤検地とは? 3つの知識をもとに仕組みをわかりやすく解説
歴史上の人物で、特に人気の高い豊臣秀吉。その秀吉のおこなった政策として、超有名なモノのひとつが「太閤検地」です。
太閤検地とは、全国の土地を調べる政策のこと。ここまでは知っていても、次のような内容については曖昧な子も多いかもしれません。
- 秀吉は何のために太閤検地をおこなったのか?
- どのような仕組みが採用されたのか?
- 結果としてどのようなことが起こったのか?
こうしたモヤモヤとする内容でも、3つの知識をベースにして整理するとスッキリ理解できます。土地制度の歴史上、太閤検地がどのような位置づけなのかも理解することで、中学入試にさらに対応できるようになりますよ。
Contents
3つのステップ
まずは、太閤検地の全体像を理解しましょう。
かなりザックリではありますが、太閤検地は次の3つのステップでおこなわれました。
STEP1:農地の広さを測る
はじめのステップは、農地の広さを測ること。“検地“というくらいなので、文字通り「土地を調べる(=検める/あらためる)」ということですね。
日本全国の農地は、地域ごとの領主が管理・支配していました。しかし、太閤検地がおこなわれるまでは自主申告制だったため、ウソの申告によってインチキができ、共通の単位もなかったので、その情報はあまり正確ではありませんでした。
そこで太閤検地では、役人がその土地に出向き、「共通単位」を使って土地の広さを正確に測ることに。これにより、これまではまったく把握できていなかった全国の農地を細かく管理できるようになったのです。
STEP2:どれくらい米がつくれるか計算する
次のステップは、その農地でつくれる米の量を計算すること。
お米の収穫量は、農地の広さだけでは判別できません。そのほかに、どんな情報が必要だと思いますか?
その土地が肥(こ)えているか?
その土地に水をひきやすいか?
その土地は平らな状態か?
たくさんありますよね……。
実際に、太閤検地では土地の広さだけでなく、上記のような土地の条件をしっかりと調べたうえで、その土地で獲れる米の量を計算したのです。
STEP3:その土地の責任者の名簿をつくる
最後のステップは、その土地の責任者の名簿をつくること。太閤検地はこの名簿をつくることを目標に、膨大な時間と労力をかけて土地を調べあげていきました。
では、なぜこのような名簿をつくる必要があったのでしょうか?
その理由は、とてもシンプル。
この名簿をもとに、年貢をガッツリ取るためです。
名簿に責任者として名前が書かれていれば、その土地から離れることができず、年貢を納める責任が生まれます。そのため農地と責任者をひもづけ、名簿で管理することが重要だったのですね。
3つの知識
太閤検地を深く理解するうえで押さえておきたい、3つの知識を紹介します。
- 広さの共通単位
- 農地の生産性の共通単位
- 名簿を使って年貢を納めさせた
知識[1]広さの共通単位
先ほど、太閤検地のメインの作業は「農地の広さを測ること」とお伝えしました。そしてこのとき特徴的だったのが、共通単位が使用されたことです。
いまでこそ共通の単位を使うのはあたりまえですが、当時は領主によって測量方法がバラバラ。そこで太閤検地では、1辺が約191cmの正方形の面積を「1歩」とし、これを基準に単位を体系化しました。ちなみに「1歩」という面積は、家の面積でおなじみの「1坪」のことです。
1歩を基準に、畝(せ)、反(たん)、町(ちょう)という単位も定義されました。国際的には、農地の面積を測るときはa(アール)やha(ヘクタール)といった単位が用いられていますが、日本では現在でも反(たん)や町(ちょう)といった単位を耳にすることがありますよね。
中学受験対策としては、共通単位の正確な値まで押さえておく必要はありません。ただし「共通単位が使われた」という事実はしっかり押さえておきましょう!
知識[2]農地の生産性の共通単位
その土地から獲れる米の量を細かく計算し、土地の生産性を明確にしたことは太閤検地の最大の特徴のひとつ。土地が広ければ広いほど多くの農作物を収穫できますが、次のような条件も収穫量に大きく影響します。
- 土地が肥えていたほうが作物がよく育つ
- 水がひいてあると水田がつくれる
- 平地にある土地のほうが農業をしやすい
そこで太閤検地ではこうした条件も考慮しつつ、それぞれの土地に4段階のランクをつけることに。そのうえで、その土地で獲れる米の量を計算したのです。
そして、このとき使用された共通単位が「石(こく)」。1石は、玄米でおよそ150kgの量です。
共通単位の「石」を使い、この土地は15石、この土地は3石、この土地は50石、といったかたちで、その土地で獲れる米の量を計算していきました。こうして定められた土地の生産性を「石高(こくだか)」といいます。
加賀百万石
加賀百万石という言葉を聞いたことがありますか? この「百万石」の部分が、まさに石高を示す部分ですね。江戸時代に加賀藩が管理していた土地で獲れる米の量が100万石(!)を超える規模であったことを示しています。
知識[3]名簿を使って年貢を納めさせた
土地の広さを測り、収穫できる米の量を予測したら、いよいよ最後のステップ。土地の責任者を記した名簿をつくる、という作業ですね。
責任者として名簿に記された農民には、年貢を納める義務が発生しました。つまり「納める人」が明確になったのです。そして、それぞれの土地の石高をもとに、その3分の2を年貢として納めることも義務づけられたことで「納める量」も明確になりました。
つまり名簿をつくる最大の目的は、年貢を「納める人」と「納める量」を明確にすることだったのです。
年貢については、次の言葉も押さえておきましょう。
- 一地一作人
- 二公一民
一地一作人
一地一作人とは、「ひとつの土地に、ひとりの責任者」という原則のこと。太閤検地がおこなわれる前は、農地を耕している人と、その土地の所有者が別々というケースも珍しくありませんでした。そこで責任者を必ず一人とすることで、年貢を納めるべき人を明確化したのです。
二公一民
二公一民とは、税率のこと。具体的には次のルールが定められました。
二公:石高の3分の2は年貢として納める
一民:残りの3分の1は農民のものとする
収穫量の半分以上を納めないといけないため、とても高い税率だったことがわかります。年貢はその土地の石高で決まるため、豊作・不作に関係なく、農民が納める年貢の量は常に一定でした。
日本の土地制度
太閤検地の3つのステップと、3つの知識を解説してきました。それでは日本の土地制度の歴史上、太閤検地がどういう位置づけになっているかも確認しましょう。
日本の土地制度に目を向けてみると、実は太閤検地が大きな節目であったことがわかります。
太閤検地より前までは、荘園の時代でした。荘園とは、簡単にいうと「私有地」のこと。土地を所有する者、土地を管理する者、土地を耕す者が何層にも階層化され、限られた貴族や豪族が大きな利益を得ていたのです。
しかし太閤検地の登場により、荘園の時代は終わりを迎えます。すべての農地に責任者が定められ、納める年貢の量もガチガチに決められてしまったのです。土地の広さや石高は自己申告できず、役人がやってきて正確に調べられてしまったので、年貢の量をインチキすることもできなくなってしまいました。
そして1873年に地租改正が導入されるまでの約300年間、太閤検地で用いられた「石高」をベースにした税の仕組みが採用され続けます。太閤検地は、まさに日本の土地制度の節目とも呼べる政策だったのですね。
まとめ
日本の歴史のなかでも、特に重要かつ、中学入試での出題頻度も高い豊臣秀吉の「太閤検地」について解説しました。
太閤検地は、3つのステップで整理しましょう。
今回紹介した3つの知識については、詳しい内容は中学入試でおそらく出題されませんが、太閤検地の理解を深めるうえで役立つので押さえておきたいですね。
太閤検地の3つの知識
- 広さの共通単位
- 農地の生産性の共通単位
- 名簿を使って年貢を納めさせた
これら3つの知識を押さえたうえで、太閤検地が日本の土地制度の節目となっていることも理解できれば受験対策としてはバッチリです!
※記事の内容は執筆時点のものです
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