弥生時代【1】「稲作の開始」 ―― イメージで覚える中学受験歴史
稲作が始まる
弥生時代の大きなできごとは、稲作が九州から本州にまで広まり、さかんにおこなわれるようになったことです。稲作は、今から約2500年前に中国や朝鮮半島から伝わってきたと考えられています。
静岡県の登呂(とろ)遺跡からは、水田のあとが発見されています。弥生土器の底には、米のもみ殻がついていたものもあったようです。こうした発見から「米作りが弥生時代からおこなわれていた」ということがわかります。
ちなみに弥生土器は、現在の「東京都文京区弥生」で発見されたことから「弥生土器」と名づけられました。分厚くてもろく、縄目の文様が特徴的だった縄文土器とは反対の、薄くて固く、文様があまりないといった特徴を持っています。中学入試でも、2つの土器の違いや比較はよく出題されます。
「穂首刈り」が稲作の中心
弥生時代の稲作は、水田で稲を育て、石包丁で稲を刈り取っていました。石包丁には、刃物の包丁のような切れ味はありません。ギリギリとこすりつけることで起きる摩擦の力で、稲の根の部分ではなく首の部分を切っていたそうです(穂首刈り)。現代の稲作で主流の「根刈り」(根の部分を刈り取る)をおこなうようになったのは、鉄の鎌が使われるようになってからです。
高床式倉庫のヒミツ
刈り取った稲は、高床式倉庫に保存されました。高床式になっている理由は、風通しをよくすることに加え、地面からの湿気を防ぐためです。柱の途中には「ねずみ返し」がついていて、ねずみが倉庫に侵入することを防いでいました。
貧富の差から「ムラ」が生まれた
稲作は難しいため、上手につくれる人ばかりではなく、下手な人も出てきます。こうして貧富の差(たくわえの差)が生まれました。その結果、「上手な人に教えてもらおう」とお米づくりが上手な人のもとに人々が集まり、「ムラ」という集団ができます。そしてムラ同士で争いが起こり、勝ったムラがさらに大きくなると「クニ」というさらに大きな集団となっていきました。
とじる
お気に入り機能は
会員の方のみご利用できます
会員登録のうえログインすると
お気に入り保存できるようになります。
お気に入りのコンテンツは、
マイページから確認できます