弥生時代【2】中国の3つの歴史書――イメージで覚える中学受験歴史
弥生時代の様子を知る「3つの歴史書」
弥生時代の様子は、中国の3つの歴史書から知ることができます。
・「漢書」地理志
・「後漢書」東夷伝
・「魏志」倭人伝
旧石器時代や縄文時代はもちろん、弥生時代のころの日本には文字がありませんでした。そのため、記録を残すことができなかったのです。
一方で、海の向こうにある中国ではすでに文字を使っていました。そして中国の歴史書を調べると、当時の日本の様子が書かれています。これらは、日本のことが文字で書かれている貴重な史料です。
ちなみに、中国の歴史書によると日本は「倭(わ)」と呼ばれていたようです。日本から中国に来た使いが「わ」と言っていたから、日本を「倭」と呼ぶようになったという説もあります。
「漢書」地理志
まずは、「漢書」地理志(かんじょちりし)です。紀元前の中国には「漢」という王朝がありました。その「漢」の時代に書かれた歴史書が「漢書」です。漢書のなかに地理志という項目があり、日本のことが以下のように書かれていました。
楽浪郡(現在のピョンヤン付近)の海のかなたに、倭人が100あまりの国に分かれて住んでいる
ポイントは、「日本には100あまりの国があった」ということです。ピョンヤンは現在の北朝鮮の首都ですが、当時の朝鮮半島は漢が直接治めていたようです。「漢書」のなかの、地理志というページに書かれていたことも押さえておきましょう。
「後漢書」東夷伝
次は、「後漢書」東夷伝(ごかんじょとういでん)です。「漢書」地理志が編さんされた漢王朝は紀元後5年に滅ぼされてしまいますが、1世紀になると「後漢」という王朝が登場します。ちなみに、あとから登場した漢を「後漢」、「漢書」地理志の漢を「前漢」と区別して呼びます。
その後漢の時代に書かれた「後漢書」の東夷伝というページに、後漢と日本が交流していたことが以下のように記録されていました。
1世紀のなかごろ(西暦57年)、倭の奴国(なこく)の王が後漢に使いを送ってきたので、皇帝が金印を授けた
つまり、後漢の機嫌をうかがうために、奴国の使いがみつぎ物を贈ったということです。そして、後漢の皇帝からもらったのが金印です。
金印は、金でできたハンコのこと。そこには、「漢委奴国王」とほられていました。つまり後漢の皇帝は、奴国の王に金印を渡すことで「お前は漢の手下の奴国の王だってことを認めてやろう」という証明としたんですね。
この金印は、1784年に福岡県の志賀島(しかのしま)で発見されました。そのため、奴国は日本の北九州にあった国とされています。ちなみに、金印にほられていた「漢委奴国王」の「委」の文字を、倭国の「倭」と混同しないように気をつけましょう。
「魏志」倭人伝
最後に、「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)です。3世紀の中国は「魏」「呉」「蜀(しょく)」という3つの国に分かれていました。「三国時代」と呼ばれる時代ですね。ちなみに『三国志』は、それぞれの国で書かれた「魏志」「呉志」「蜀志」をまとめたものを指します。
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