連載 「自分のやりたい!」がある子はどう育ったのか

落ちこぼれ東大生から外務省職員へ。東大を留年をしたときに言われた母の一言|「自分のやりたい!」がある子はどう育ったのか

専門家・プロ
2020年1月28日 中曽根陽子

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AIが登場し、人間が果たす役割が変わっていこうとしています。「いい大学、いい会社に入れば安泰」という考え方が通用しなくなっていることは、多くの方が感じているでしょう。子どもたちが、しあわせに生きていくためには、どんな力が必要なのか? 親にできることは? この連載ではやりたいことを見つけ、その情熱を社会のなかで活かしているワカモノに注目します。彼らがどんな子ども時代を過ごしたのか。親子でどんな関りがあったのか。「新しい時代を生きる力」を育てるヒントを探っていきます。

今回の主人公は外務省に勤務する大谷壮矢さんと、その母・見早さんです。壮矢さんは東大を経て外務省へ入省。「国際協力をしたい」という夢を叶え、その道を歩んでいます。現在、アフリカのジブチ日本国大使館で政務担当として、多岐にわたる業務をこなす壮矢さん。一時帰国した彼から話を聞きました。

周りの東大生からの評価は「英語しかできないバカ」

大学受験の前までは、映画を作りたいと思っていたという壮矢さん。進路を考えるときに、映画製作の専門学校に行くのは違うのではと悩んでいたところ、高校の先生から、細かい進路は大学に入ってから選べるから、と東大をすすめられて受験をしました。

しかし、「東大に入ったら、センスに溢れた賢い人がたくさんいると思っていたけれど、実際はそうでもなかった……」というのが壮矢さんの東大生に対する印象だったそうです。反対に、周囲の東大生のからの評価は、なんと「英語しかできないバカ」だったとか。彼の名誉のために断っておくと、決してバカではないことは、経歴だけでなく、彼の話ぶりからもすぐにわかります。そんな壮矢さんが国際協力をしたいと思うようになったのは、東大で留年を経験した後からでした。

東大2年生のときに留年。恐る恐る母親に電話をかけた

東大には、進学振り分け(通称、進振り)という制度があり、2年生までは専門を定めず、入学後の履修科目の点数によって選べる学部が決まります。大学入学後に進路を決められるというのはよいことです。その反面、行きたい学部学科への進学のために、東大生は入学後も第2の受験勉強をするようなものだともいわれます。

壮矢さんは「進学のための勉強」に興味が湧かず、英語以外は点数が低かったようです。そして、進振りの前に必修科目のひとつがどうしてもとれず留年。留年が決定した壮矢さんは、「マズいな、親になんて言われるかな」と、暗い気持ちで母・見早さんに電話をかけました。

「単位がとれないので留年が決定しました……」という壮矢さんに、母は「そうなんだ」と一言。そして、「まあ、よかったじゃない。せっかく時間ができたのだから、いろんなことを経験すればいい」と話したそうです。壮矢さんは、「驚いたと同時に本当に救われた」と言います。結果的にこの留年が、彼の今の道を選ぶターニングポイントになりました。

留年中に、アメリカで環境保全のボランティア活動に参加

海外のフィールドワークを経て「国際協力に携わりたい」と思うように

留年した1年間は、アメリカで環境保全のボランティア活動をした後に、数ヶ月ヨーローッパをバックパックで回った壮矢さん。帰国後、自分を派遣してくれた国際ボランティアNGO『NICE(ナイス)』で引き続きボランティア活動をするようになり、ネットワークを広げていきました。その活動に重心が置かれるようになり、大学にはあまりいなかったそうですが、「活動を通して出会った大人たちが、東大の中だけでは出会えない魅力的な人たちだったから」といいます。

大学生の時は、ボランティア活動に積極的に参加していた

留年を経た後は、フィールドワークが多いことで有名な「地球惑星環境学科」に進学。この学科は、卒業後の職業につながりにくいイメージがあり、学生からはあまり人気がなかったそうです。しかし、壮矢さんは「やりたい勉強だと、はじめて思えた」と言います。

その後、大学院に進学。研究室の教授は「学ぶというのは、大学院の研究だけでなく広い意味がある。何かしらの学びに真剣に取り組んでいるなら大学にこなくてもいい。ただし結果は残しなさい」と言ってくれたといいます。壮矢さんは大学院で太古の気候を研究する、古気候学の研究をしながら、研究以外の活動として、学部時代から続けていたボランティアや、自宅で近所の子ども達に勉強を教える寺子屋塾を開くなど、アクティブな毎日を過ごしました。

卒業後の進路を考える直接のきっかけになったのは、海外でのフィールドワークの現場で、多くの日本人の国際協力の足跡を目の当たりにしたことだったそうです。印象的だったのが、調査のためバングラディシュに滞在していたときに、地域の住民が「この道路も橋もJICAがつくってくれた」とわざわざ話をしに来てくれたこと。「自分も日本人として、国際貢献をしたいとはっきり考えるようになった」といいます。

太古の気候を研究するために、海外で水を採取するフィールドワークに度々出かけた

日本では寺子屋を開いていた壮矢さん。海外で出会った子どもたちともすぐに仲良しに

国際貢献ができる場として、最初は国連を志望していましたが、さまざまな大人と話をするうちに外務省を目指す決意を固めます。その結果、見事採用。理系の院卒から外務省に入省するというのは異色だそうです。しかし回り道をした分、引き出しが増え、今の仕事に生かされていると壮矢さんはいいます。入省後はフランスに留学した後、現在は希望を叶えて発展著しいアフリカと日本の架け橋となって働いています。

ご飯をちゃんとたべさせることを第一優先に、人としてのマナーは厳しく教えた

遠くアフリカの地で活躍する壮矢さんついて、「毎日楽しく頑張っているみたいです」と語る母・見早さん。壮矢さんをはじめ3人の息子を育てた、見早さん流の子育て観を聞きました。

家族と一緒に
壮矢さん(写真右)/母・見早さん(写真中央)/三男海人さん(左)

壮矢が小さいときからフルタイムで勤務していました。ですから、幼少期はほぼ保育園に育ててもらったようなものです。保育園の先生方からは多くのことを教えてもらいました。私が当時心がけていたのは、ごはんをしっかり食べさせることと、人としてあたりまえのマナーを身につけること。マナーとは、箸の上げ下ろしといった食事のマナーから、あいさつ、人がどう思うかを考えて行動するという部分までを含みます。確固としたルールがあったわけではなく、単純に私が嫌かどうか、という基準でしたから、子どもたちが理不尽に感じたことも多かったかもしれません。

壮矢は3人兄弟の長男で、小さい頃から扱いやすい子どもでしたが、次男が生まれてすぐにチックの症状がでたことがありました。5歳のときには、ニューヨークへ転勤。現地の幼稚園にいれましたが、言葉が通じないことがストレスだったようです。毎朝教室に入れず、泣き叫ぶ日々が続いていました。

ニューヨークで過ごした幼少期

そんな彼の心を癒し、言葉の壁を超えて友達をつくってくれたのがテレビゲームでした。だから私は、頭ごなしにゲームを否定することができません。子どもの様子をよく観察し、面白がり、なぜだろうと考えながら、親子で話をすることを心がけてきました。

習い事はそんなにたくさんしていません。ただ、家や学校以外の「第3の場所」をつくることは意識しました。小学生6年間は、近所の警察が主催する剣道教室に3人とも通いました。また壮矢が、小学校の授業で触れた楽器に興味を持って、音楽をやりたいというので、知り合いにお願いして、バンドに入れてもらったこともあります。

勉強に関してもうるさくは言いませんでしたが、高校生までは門限を守るなど、わが家の方針を貫きました。一転、大学生になったら一切干渉せず、本人に任せました。3人とも同じ中高にお世話になり、思春期はずいぶん先生にお世話になりました。その分、PTA活動に関わることで学校へお返しをしたつもりです。子どもは三者三様。性格も、好きなことも違います。だからおもしろい。それぞれの道で自立してくれたらと思っています。

取材を終えて

壮矢さんは、話していて本当に気持ちのよい青年でした。視野が広く、自分の考えや言葉をしっかりと持っているけれど、驕らない。バランス感覚に優れている人でした。自分で考え行動しながら、自分のやりたいことを見つけていく逞しさがあります。だからこそ、学部学科を決めるためだけの、成績を収めるためだけの勉強には興味が持てなかったのかもしれません。そんな彼の生きる力は、さまざまな経験を通じ、多様な人と触れ合うなかで培われたのだと思います。そしてそのベースは、母・見早さんの影響が大きいと感じました。

見早さんは、3人の男の子を育てた「肝っ玉母ちゃん」という印象です。次男は芸大を出て、教員をしながら作家活動、三男は演劇の道を志す大学生。三者三様、子どもの「やりたい!」という気持ちを大事にする姿勢です。「ダメなものはダメ」とする一方で、勉強には口を出さず、挑戦の土台をきちんとつくり、本人の意思に任せていく。強くしなやかな母親です。

壮矢さんは「母は怖かった。でも、やりたいという自分の気持ちを尊重してくれたし、人としてあたりまえの道徳的なことを叩き込まれていたので、それが自分の行動の指標になっている」と話してくれました。肝っ玉母ちゃんの想いはしっかり伝わっているようです。

見早さんは壮矢さんが留年したときのことを振り返って、「ずっと順調にいくより、どこかで一度挫折の経験をしたほうがいいと思っていたし、どうにもならないことを、ぐちぐち言っても仕方ないと思った」といいます。

理想とする道を親が示し、子どもが踏み外さないようにまじめに歩く――それは親にとって安心かもしれません。しかし、子どもが予想外の出来事に対応する力を身につける機会は限られるように思えます。やりたいことを見つけ、自分の足で歩いていくには、失敗をバネに試行錯誤を経験すること――子どもの「失敗力」を育てることが必要ではないでしょうか。その点、どれだけ親が見守れるかが大事だと私は思います。リスクがあるとわかっていながら見守りに徹する。親にとって苦しいことです。ですが、それが子どもの失敗力を育てます。壮矢さんは、安心して試行錯誤ができたから、今にたどり着けたのだと思います。

※記事の内容は執筆時点のものです

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