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安土・桃山時代【2】織田信長の時代 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年2月09日 吉崎 正明

皆さんは、織田信長を知っていますね。戦国時代に活躍した大名で、歴史マンガやゲームなどでも人気が高い人物です。信長は天下統一の目前まで上り詰めた人物としても知られますが、もともとは尾張(おわり)という国の小さな戦国大名でした。しかし戦いで勝ち続け、着々と“レベルアップ”していったのです。ちなみに信長は「うつけ」と呼ばれていました。うつけとは、現代で言うところの「ヤンキー」のような意味。破天荒な性格として知られた信長ですが、実は戦いの場面では冷静沈着、政治の面でも才能あふれる人物だったといわれています。

桶狭間の戦い

信長の強さがわかる戦いのひとつが、1560年に起きた「桶狭間(おけはざま)の戦い」です。尾張の隣に位置する駿河(するが)の大名である今川義元(いまがわよしもと)が、2万5000もの兵を率いて尾張を攻めてきました。それに対し、信長の兵は2000ほど。10分の1にも満たない規模だったといわれますが、奇襲作戦が功を奏し、信長は今川義元の軍に勝ってしまったのです。桶狭間の戦いは、今川軍をかく乱し、今川義元の周囲を手薄にさせた信長の作戦勝ちといわれます。

■年号の覚え方
1560年「桶狭間の戦い」……今川イチコロ(1560)おけはざま

足利義昭を15代将軍に

桶狭間の戦い後、信長は天下統一にさらに近づくため、将軍の力を利用しようと考えます。そこで上洛し、足利義昭を15代将軍にするために力を貸しました。足利義昭はお坊さんでしたが、信長が上洛する2年ほど前、将軍を目指して還俗(げんぞく)していました。なお、上洛とは「京都に入ること」、還俗とは「お坊さんが一般人の立場に戻ること」を指す言葉です。

破天荒な性格として有名な信長でしたが、京都ではさまざまな人にていねいな姿勢で接していたそうです。これにより京都の民衆はもちろん、天皇や公家、貴族もすっかり信長を見直し、信長はますます有名になっていきました。

姉川の戦い ―― 仏教勢力と対立

1570年、信長は浅井長政(あざいながまさ)と朝倉義景(あさくらよしかげ)の連合軍と、琵琶湖沿岸の姉川で戦います(姉川の戦い)。浅井長政のもとには、信長の妹・お市が嫁いでいたため、浅井長政は信長にとって義理の弟。本来は味方のはずですが、浅井長政は朝倉側につきました。そして比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)や、一向宗(浄土真宗)のお坊さんまでもが浅井・朝倉連合軍についたため、信長は仏教にも敵対心を抱くようになりました。その後、信長は一向宗の石山本願寺と戦い、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちにしてしまいます。信長は仏教の勢いを押さえたい一心で、キリスト教の保護にも取り組みました。

室町幕府滅亡

全国規模でその力を示し、名声を高めていく信長に対し、15代将軍の足利義昭は不満を持ち始めます。「信長のことだ、このまま手をつけられなくなったら何をするかわからない」と考え、足利義昭は武田信玄などに手紙を送りました。こうして打倒・織田信長に向けて動き出した矢先、その計画が漏れてしまい、信長は1573年に足利義昭を追放。将軍の追放は幕府の滅亡を意味します。結果として1573年、室町幕府はその歴史に幕を閉じたのでした。

■年号の覚え方
1573年「室町幕府滅亡」……以降(いご/15)なみ(73)だの室町幕府

長篠の戦い

1575年、長篠(ながしの)の戦いが起こります。長篠の戦いとは、信長・徳川家康の連合軍と、武田勝頼(かつより)率いる「騎馬隊」が争った戦いのこと。長篠はメロンや電照菊、豊川用水で有名な渥美(あつみ)半島の近くに位置する場所です。

武田軍の騎馬隊に対し、織田・徳川軍は鉄砲を効果的に使って勝利しました。このとき織田・徳川軍が採用したといわれる「三段戦法(三段撃ち)」は、中学入試でも多く出題されています。

■三段戦法(三段撃ち)
鉄砲を撃つ役割をもった足軽を、まずは3列に並ばせる。そして最前列の足軽が銃を撃つと、その足軽は一番後ろに下がり、次の足軽が出てきて銃を撃つ。そして、その足軽も最後列に回る ―― といった、まるで“ベルトコンベア”のような戦法

長篠の戦いで使われた火縄銃は、1発ずつしか撃てない銃でした。しかし三段戦法であれば、次々と撃ち続けることができます。この戦法は、武田軍の武士だけでなく、相手の馬もびっくりするような見事な作戦だったと伝えられています。長篠の戦いは、まさに“チームワークの勝利”ともいえる戦いだったのですね。

■年号の覚え方
1575年「長篠の戦い」……ヒト(1)こなご(575)なの長篠の戦い(鉄砲の威力で、武田軍を粉々にするほどの戦いだったことから)

ちなみに武田勝頼は、武田信玄の息子です。武田信玄はとても強い戦国大名だったため、信長はどうやって倒そうか悩んでいました。しかし1573年、武田信玄は亡くなってしまいます。この突然の死が、信長に追い風として働いたともいわれています。

楽市・楽座

1576年、信長は琵琶湖のほとりに安土城を築きはじめます。当時の城は豪華で雄大なつくりで、最上階には天守(天守閣)もある立派なもの。外から見ると5階建て、実際は7階建ての城、いわゆる「5層7重」で建てられた安土城を、信長は天下統一のための拠点としました。

そして城下町には、商工業をさかんにするために「楽市・楽座」を開きます。楽市・楽座とは、同業者組合の「座」を廃止し、誰でも自由に商売ができるようにした施策のこと。さらに信長は、関所も廃止しました。関所は、領地を守るために置かれた大切な場所です。しかし、そこを通るためには通行料を払う必要がありました。そこで信長は「商人が自由に行き来できるようにしたほうが、産業がもっと発展していくだろう」と考え、関所を廃止したのです。

本能寺の変

天下統一を目前に控えた信長でしたが、1582年、本能寺で家来の明智光秀(あけちみつひで)に襲われ、自害します。この出来事は「本能寺の変」と呼ばれ、信長の天下統一の夢ははかなくも散っていきました。

本能寺の変が起きる前、信長は家来の豊臣秀吉に対し、中国地方で毛利輝元(もうりてるもと)の軍と戦うように命じていました。しかし戦いの最中、秀吉から助けを求める手紙が届きます。秀吉を助けるために戦地に向かった信長は、その途中で京都の本能寺に泊まっていました。このとき、明智光秀の裏切りにあってしまうのです。その後、信長の死を聞いた秀吉はかたき打ちのために急いで駆けつけ、明智光秀を倒しました。

天下統一に向けて駆け上がった織田信長

尾張の小さな大名だった織田信長は、戦いを重ね、徐々にその力を拡大していきました。1560年に起きた「桶狭間の戦い(今川イチコロおけはざま)」や、1575年の「長篠の戦い(ヒトこなごなの長篠の戦い)」などの戦いは、年号も含めて覚えておきましょう。そして「楽市・楽座」などの商業の取り組みも経て、天下統一まであと一歩のところまで信長が上り詰めたこともイメージできるようにしておけると良いですね。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。

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