連載 イメージで覚える中学受験歴史

安土・桃山時代【3】イメージで覚える中学受験歴史 ―― 豊臣秀吉と桃山文化

2021年3月19日 吉崎 正明

本能寺の変で倒れた織田信長に代わり、天下統一をめざした豊臣秀吉。「サル」や「はげねずみ」と呼ばれた秀吉ですが、信長の草履を懐(ふところ)で温めるといったエピソードからうかがえる主君への心配り、そして戦いの場面でも才能を発揮した人物としても知られます。そして信長の死後、秀吉は天下統一に向けたさまざまな政策に取り組みました。

豊臣秀吉 ―― 4つの出来事

豊臣秀吉の主君・織田信長は、1582年の本能寺の変で明智光秀の裏切りにあって自害しました。知らせを聞いた秀吉はすぐに駆けつけ、明智光秀を倒します。そして信長が成し得なかった天下統一までの道のりを受け継ぎ、ついに1590年、天下統一を成し遂げました。

豊臣秀吉に関して、中学受験で特に出題されやすい4つの出来事を説明します。

太閤検地

まず秀吉は、1582年から太閤検地(たいこうけんち)をおこないました。

太閤検地
年貢をはかるための「ます」や「さお」の大きさを全国で同じものに統一し、農耕地の広さ、米のとれ高、農民の名前などを「検地帳(けんちちょう)」に記録。基準がしっかりと決められたこと、そしてこれらの取り組みを全国隅々までおこなったことで年貢のとれ高が安定した。

太閤検地前は荘園が多く残っていましたが、太閤検地後はそのほとんどが姿を消しました。「荘園の記録をリセットした」とイメージしておくと太閤検地の理解が進むでしょう。なお一般的には「検地」と呼びますが、秀吉がおこなったものは特別に「太閤検地」と呼ばれます。太閤の「閤」を「閣」と書いてしまう受験生が多いので注意してくださいね。

刀狩

秀吉は1588年に「刀狩令(かたながりれい)」を出し、農民が持っていた武器を取り上げました。刀狩の目的は、農民の一揆を防止し、農業に集中させること。でも「一揆を防ぐから武器をよこせ!」と言うだけでは農民は武器を渡してくれません。そこで刀狩令では「方広寺(ほうこうじ)の大仏を造るための材料にする」という理由で武器を取り上げました。「大仏の役に立つなら」「ご利益がありそうだ」と農民たちは武器を差し出します。ちなみに没収した武器はクギなどに変えられ、実際に大仏を造る際に使われたそうです。

中学受験のテキストなどでは「刀狩」と「刀狩令」とふたつの表記が出てくるため混同してしまうかもしれませんが、「刀狩をおこなった」「刀狩令が出された」くらいの使い分けができていればOKです。

■年号の覚え方
1588年「刀狩令」……以後は刃(1588)物を禁止する

天下統一

秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を築き、政治の拠点としました。さらに朝廷の権威を借りつつ、全国に力を及ぼします。1585年には関白となり、その翌年には太政大臣(だいじょうだいじん)に任命されました。そして九州や四国の大名を降伏させたのち、戦国時代も終わりに差し迫った1590年、北条氏の小田原城を包囲します。これにより北条氏は降伏。この出来事をもって、秀吉はついに天下統一を成し遂げました。

■年号の覚え方
1590年「天下統一」……戦国丸めて(1590)天下統一

朝鮮出兵

天下統一を成し遂げ、日本一となった秀吉は“世界デビュー”をめざします。目をつけたのは、当時の中国・明(みん)。明の征服を考え、朝鮮に道案内を頼みますが朝鮮はこれを拒否。そのため秀吉は朝鮮出兵を決意し、肥前(佐賀県)に名護屋城を築き、朝鮮出兵の拠点としました。

そして1592年には1回目の出兵「文禄の役(ぶんろくのえき)」、1597年には2回目の出兵「慶長の役(けいちょうのえき)」をおこないます。なお「朝鮮出兵」はこれら2回の出兵をまとめた言い方として用いられるのが一般的です。鎌倉時代の元寇(文永の役/弘安の役)と混同しやすいので注意しましょう。

朝鮮出兵
1回目……文禄の役
2回目……慶長の役

いざ朝鮮に進撃した日本軍でしたが、朝鮮はとても強く、船が鉄板で覆われた亀甲船(きっこうせん)や、朝鮮の武将・李舜臣(リ・シュンシン)率いる水軍に日本軍は苦戦します。特に朝鮮の水軍は強く、日本の水軍は撃破されました。そして「慶長の役」の最中、秀吉は病気で亡くなります。こうして日本軍は朝鮮から退却し、朝鮮出兵は終わりを迎えました。

ちなみに日本軍は敵を討ち取ったとき、その手柄の証拠として相手の耳や鼻をそぎ落とし、秀吉に送っていたとされます。その後、これらを供養するために“耳や鼻のお墓”として各地に耳塚がつくられました。また日本は、朝鮮から多くの職人を連れて帰ってきました。この職人たちは有田焼や萩焼(はぎやき)、唐津焼(からつやき)などの陶磁器をつくる職人。この頃から有田焼などが日本で使われていたのです。

桃山文化

桃山文化は、戦国大名や商人たちが活躍した時代の、豪華で雄大な文化です。桃山文化には仏教色はあまり見られず、主に南蛮文化の影響を受けています。なお「カステラ」「金平糖(コンペイトウ)」といった言葉はポルトガル語で、当時の南蛮貿易によって伝えられました。

桃山文化の代表的な建築物といえば、城。安土城や姫路城、大阪城が有名です。当時の城は、城の象徴ともいうべき「天守閣」をもっていました。

安土城は築後まもなく焼けてしまい、“幻の城”ともいわれています。一方で世界文化遺産にも登録されている姫路城は、太平洋戦争の被害からも逃れ、ほぼ当時の姿のままで存立しています。姫路城はその白い城壁の美しさから「白鷺城(しらさぎじょう)」という名前でも親しまれています。

障壁画

障壁画は金(きん)の色使いが特徴的な絵として知られ、ふすまなどに描かれました。安土城や大阪城などのふすまにも描かれ、お城をゴージャスに彩っています。

狩野永徳(かのうえいとく)が障壁画の第一人者といわれ、障壁画は主に狩野派の人々が制作を手がけました。障壁画のなかでは、特に「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」が有名です。

茶道

「茶の湯」とも呼ばれる茶道は、千利休(せんのりきゅう)によって確立しました。茶道はいろいろな作法を取り入れたもので、 “わびさび”を味わうものとされます。

千利休は、茶の湯を愛好していた織田信長に仕えていました。信長が亡くなると豊臣秀吉に仕えましたが、秀吉は茶が嫌いだったとか。茶のスタイルも互いに違うため、千利休と秀吉は関係が良くなかったそうです。そして千利休は秀吉に切腹を命じられ、その生涯を閉じました。

歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、現代にも伝わる伝統芸能です。男性が演じるイメージがあるかもしれませんが、はじめは女性が演じていました。出雲の阿国(いずものおくに)という女性がはじめた芸能としても知られています。

天下統一を果たした豊臣秀吉

豊臣秀吉は戦いに秀でていたことで、天下統一を果たしました。世の中は、戦国時代が終わりに差し掛かったころ。さまざまな動乱を経て、まさに「戦国丸めて(1590)」日本一にたどり着いたのです。そして国内の頂点に上り詰めた秀吉は、太閤検地や刀狩をおこなったのち、今度は世界デビューに乗り出します。その過程で朝鮮出兵をおこなった、というイメージもあわせて持っておけると良いですね。


これまでの記事はこちら『イメージで覚える中学受験歴史

※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。