安土・桃山時代【3】イメージで覚える中学受験歴史 ―― 豊臣秀吉と桃山文化
本能寺の変で倒れた織田信長に代わり、天下統一をめざした豊臣秀吉。「サル」や「はげねずみ」と呼ばれた秀吉ですが、信長の草履を懐(ふところ)で温めるといったエピソードからうかがえる主君への心配り、そして戦いの場面でも才能を発揮した人物としても知られます。そして信長の死後、秀吉は天下統一に向けたさまざまな政策に取り組みました。
豊臣秀吉 ―― 4つの出来事
豊臣秀吉の主君・織田信長は、1582年の本能寺の変で明智光秀の裏切りにあって自害しました。知らせを聞いた秀吉はすぐに駆けつけ、明智光秀を倒します。そして信長が成し得なかった天下統一までの道のりを受け継ぎ、ついに1590年、天下統一を成し遂げました。
豊臣秀吉に関して、中学受験で特に出題されやすい4つの出来事を説明します。
太閤検地
まず秀吉は、1582年から太閤検地(たいこうけんち)をおこないました。
太閤検地
年貢をはかるための「ます」や「さお」の大きさを全国で同じものに統一し、農耕地の広さ、米のとれ高、農民の名前などを「検地帳(けんちちょう)」に記録。基準がしっかりと決められたこと、そしてこれらの取り組みを全国隅々までおこなったことで年貢のとれ高が安定した。
太閤検地前は荘園が多く残っていましたが、太閤検地後はそのほとんどが姿を消しました。「荘園の記録をリセットした」とイメージしておくと太閤検地の理解が進むでしょう。なお一般的には「検地」と呼びますが、秀吉がおこなったものは特別に「太閤検地」と呼ばれます。太閤の「閤」を「閣」と書いてしまう受験生が多いので注意してくださいね。
刀狩
秀吉は1588年に「刀狩令(かたながりれい)」を出し、農民が持っていた武器を取り上げました。刀狩の目的は、農民の一揆を防止し、農業に集中させること。でも「一揆を防ぐから武器をよこせ!」と言うだけでは農民は武器を渡してくれません。そこで刀狩令では「方広寺(ほうこうじ)の大仏を造るための材料にする」という理由で武器を取り上げました。「大仏の役に立つなら」「ご利益がありそうだ」と農民たちは武器を差し出します。ちなみに没収した武器はクギなどに変えられ、実際に大仏を造る際に使われたそうです。
中学受験のテキストなどでは「刀狩」と「刀狩令」とふたつの表記が出てくるため混同してしまうかもしれませんが、「刀狩をおこなった」「刀狩令が出された」くらいの使い分けができていればOKです。
■年号の覚え方
1588年「刀狩令」……以後は刃(1588)物を禁止する
天下統一
秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を築き、政治の拠点としました。さらに朝廷の権威を借りつつ、全国に力を及ぼします。1585年には関白となり、その翌年には太政大臣(だいじょうだいじん)に任命されました。そして九州や四国の大名を降伏させたのち、戦国時代も終わりに差し迫った1590年、北条氏の小田原城を包囲します。これにより北条氏は降伏。この出来事をもって、秀吉はついに天下統一を成し遂げました。
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