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【社会】中央集権とは? 日本が中央集権化に大きく動いた「ふたつの時代」を押さえよう

2022年12月09日 ゆずぱ

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中央集権とは、簡単に言うと「政治の権限が1か所に集中している体制」のこと。国のなかに政府が“ひとつだけ”あり、その政府が政治の権限を一手に担っているような体制を指します。

じゃあ日本は、中央集権の国ってこと?
中央集権じゃない仕組みってあるの?
日本の歴史上、中央集権化していた時代は?

このようにいろいろな疑問が湧いてくるかもしれませんが、これらの疑問に関連することは中学入試でもバッチリ出題されています。

入試では中央集権についての基本知識が問われることはもちろん、日本の歴史上、中央集権化に向けて大きく動いた出来事についても問われているので、今回お伝えする内容をもとにしっかりと理解を深めていきましょう。

中央集権とは?

中央集権について、受験で使える知識をさっそく解説していきます。まずは基本知識から押さえていきましょう。

中央集権とは政治の権限が1か所に集まっている体制のことですが、「政治の権限」とはいったい何を指すのでしょうか?

それは、以下のようなことです。

 

日本では、これらの権限は「日本政府」が主に担っています。そして日本政府は国内にひとつしかないので、日本は「中央集権の国」と言えます ――。

 

「いや、ちょっと待った!」という声が聞こえてきそうですね。

日本には都道府県や市町村もあって、独自に決まり(条例)をつくったり、税金の使い道などを決めていたりするはず。だったら日本は「中央集権の国」とは言えないのでは?

たしかに、こうした疑問が生まれるのも当然です。では次に、「中央集権」の対義語とされる「地方分権」を説明しましょう。

地方分権

地方分権とは、地方自治体に権限を委譲した政治体制のこと。日本国憲法の第92条から第95条には地方自治に関する基本的な原則が記されていて、地方自治体は法律の範囲内であれば条例をつくれますし、稀(まれ)なケースではあるものの、住民投票の結果が国会よりも強い力を持つ場合もあります。

つまり日本は、注目する箇所によっては「地方分権の国」と言うこともできるのです。

このように、中央集権や地方分権は“対義語”とされているものの、必ずしも国家の政治体制を一括りにして、中央集権か地方分権のどちらかに分類できるわけではありません。たとえば、「現在の日本は、江戸時代の日本と比べれば中央集権国家だが、明治時代の日本と比べれば地方分権国家である」というように、比較対象によって同じ国家がどちらにもなり得る言葉なのです。

日本が中央集権化した「ふたつの時代」

日本の歴史を俯瞰して見ると、中央集権化へと大きく舵を切った時代がふたつあることがわかります。

それは、飛鳥時代明治時代です。

 

飛鳥時代

飛鳥時代は、地方で力を持った「豪族」という一族が各地で権力を握っていた時代です。しかし大宝律令が出されたことにより、天皇を中心とした中央集権の国家へと変わっていきました。

 

4世紀頃に成立した「大和政権」は、大王(おおきみ)と豪族の連合政権です。しかし、当時の支配者の大王よりも豪族の力が強くなり、大王の力をしのぐほどになっていました。

そこで聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのおうじ)は、天皇中心の「中央集権の国づくり」を目指すことにします。そのとき目をつけたのが、(中国の王朝)です。隋は、まさに中央集権の統治体制を取り入れて成功していたため、その優れた制度を取り入れて国内を統治しようとしたのです。

このときおこなった政策は、主に次のふたつです。

  1. 大化の改新
  2. 大宝律令

政策[1]大化の改新 ―― 基本方針を示した

大化の改新とは、聖徳太子が目指した中央集権の統治体制を継承し、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)がおこなった政治改革のこと。

大化の改新では「改新の詔(みことのり)」という天皇の命令が出されましたが、この詔には、これからつくる中央集権国家について以下のような基本方針が書かれていました。国全体を統治するために中央集権化を目指していたことがわかりますね。

  • 土地と人民はすべて国のものとする
  • 行政区分をつくる
  • 戸籍をつくる
  • 税の仕組みをつくる

土地と人民はすべて国のものとする

これまで豪族が支配していた土地や人民を「すべて天皇のものとする」という方針のこと(=公地公民制)。中央集権化を図るために、豪族の持っていた土地などを中央に集めることなどが示されました。

行政区分をつくる

政治の中心となる首都を設置し、全国を「国」や「郡」に分けるという方針も示されました。中央集権の仕組みでは、地方に人を派遣して全国を統治する形式が一般的。それを実施するためにも「区分け」が必要だったのです。

戸籍をつくる

国民を管理するために戸籍をつくり、土地(田んぼ)を国民に与え、亡くなったら国に返すようにしました。

税の仕組みをつくる

最後に書かれていたのは、税を取る仕組みについて。国民に与えられた土地の面積に応じ、強制的に税を徴収するという方針が示されました。税は、中央集権化に欠かせない要素のひとつです。

政策[2]大宝律令 ―― 中央集権化を本格的に進めた

改新の詔が出されてから、およそ50年後。701年に定められたのが「大宝律令」です。

改新の詔では基本方針が示されましたが、あくまで基本方針のため、実態はそこまで変わっていませんでした。そこで改新の詔に従うかたちで大宝律令が定められ、この律令に基づいた「律令政治(中央集権的な政治)」が実現したのです。

律令政治には4つの大事なポイントがあります。中央集権という視点をもとに、それぞれのポイントについて見ていきましょう。

法律……大宝律令
政府……二官八省
戸籍……班田収授の法
税制……租庸調

法律 ―― 大宝律令

地域ごとに異なる法律があったり、いろいろな人が法律を勝手につくったりしてしまうと国を統治できません。そこで国全体に通用する法律として「大宝律令」がつくられました。

」は刑罰についての決まり、「」は政治のやり方についての決まりのこと。制定時の元号が「大宝」だったので大宝律令と呼ばれます。

政府 ―― 二官八省

二官八省とは、政治をおこなう組織体制のこと。いまも内閣が主導するかたちで、厚生労働省や経済産業省などが政策を進めていますよね。

現在の都道府県や市町村のように、当時は地方に「」や「」が置かれ、国のトップの「国司」は朝廷から派遣された貴族が務めていました。このことからも、地方分権ではなく、あくまで中央集権国家を目指していたことがわかります。

戸籍 ―― 班田収授の法

班田収授の法とは、戸籍に基づいた土地管理制度のこと。一人ひとりの国民の土地を管理するために定められました。戸籍に登録された人には「口分田(くぶんでん)」という土地を与え、その人が亡くなるとその土地を国に返させました。

土地は個人に所有させず、すべて国のものとする
戸籍をもとに、その土地を徹底的に管理する

日本の統治を進めるためのこうした仕組みも、中国のやり方を真似てつくられたものです。

税制 ―― 租庸調

中央集権体制を強化するためには、朝廷が大きな財力を持つことと同時に、個人が財力を“持ちすぎない”ようにすることも必要でした。

そこで取り入れられたのが、租庸調です。租とは「口分田の広さに応じて納める稲」、調は「その地方の特産物」、庸は「布」のこと。国民は、これらの税を納めることを強制させられていました。

明治時代

日本の歴史上、中央集権化に大きく動いた飛鳥時代。大化の改新や大宝律令といった有名な出来事も、「中央集権化を進めるため」という視点で見るとさらに理解が進むでしょう。

では次に、明治時代の中央集権化の流れを見ていきます。

江戸時代の幕藩体制は徳川幕府を中心としてはいましたが、一方で各地の藩は土地や人民を管理し、税を集め、政治をおこない、軍隊も持っていました。つまり当時の日本は「地方分権」がかなり進んでいたのです。

そんな状況のなか、ペリーが浦賀に来航します。強大な軍事力や、高い技術力を目の当たりにした日本は、「このまま地方分権の体制でいては、欧米と対等な関係を築けない。“強い政府”を持つ中央集権国家をつくり、諸外国との対等な関係を目指さなければ……」といった焦りもあり、中央集権化を目指し始めました。

このとき実施されたのが、次のふたつの政策です。

  1. 版籍奉還
  2. 廃藩置県

政策[1]版籍奉還

まず実施したのが、版籍奉還。各地の藩が持っていた土地や人民を、天皇に返上させました。

あれ、どこかで聞いたことがありますね?

 

そう、飛鳥時代の「公地公民(朝廷が土地と人民を“直接支配する”仕組み)」と似ています。

版籍奉還は、藩が支配していた土地と人民を天皇に“返上する”仕組みのため、微妙な違いはありますが、両者の目的はほぼ同じ。中央集権化を進めるために、土地と人民を地方ではなく中央の支配下に置くことにしたのです。

政策[2]廃藩置県

中央集権化をさらに強固にするために、廃藩置県もおこないました。

その名のとおり「藩」を廃止して「県」を置きましたが、ただ単に名前を変えただけの政策ではありません。“日本史上最大規模の改革”と言われるほど、すごい政策だったのです。

具体的には、これまで絶大な権限を持っていた「藩」の権限をすべて取り上げ、政府が直接的に管理・支配する「県」を全国に区分けし直す、という大掛かりな取り組みがおこなわれました。

では、ここで問題です。新しく区分けされた「県」の政治は誰がおこなったでしょうか?

 

答えは、明治政府から任命された役人です。これも、飛鳥時代に地方政府の「国」を治めた国司と似ていますね。国司は中央の朝廷から派遣された貴族が務めていましたが、その理由も「中央の命令が各地でしっかり効力を持つように」との方針からです。

こうして江戸時代の“地方分権的”な仕組みから大きく変化し、明治時代の日本は中央集権化へと突き進んでいったのです。

まとめ

今回の内容をまとめます。

中央集権とは、政治の権限が1か所に集中している体制のこと。現在は多くの国家が中央集権に近い体制を敷いていますが、中央集権と地方分権のバランスは国によってさまざま。日本も中央集権国家といえますが、一部では地方分権の政治体制を取り入れています。

日本の中央集権化の歴史を見ると、飛鳥時代明治時代に大きく歩みを進めたことがわかります。

飛鳥時代 ―― 律令政治
背景:豪族が台頭し、国内の統治が揺らいでいたため
政策:大化の改新/大宝律令

明治時代 ―― 明治維新
背景:強大な力を持っていた欧米と対峙(たいじ)するため
政策:版籍奉還/廃藩置県

中学入試では中央集権についての基本知識だけでなく、飛鳥時代と明治時代に起きた出来事なども頻繁に問われています。

中央集権化に向けた流れを意識しつつ、これらの時代についての理解も深めていきましょう。

※記事内で示しているイラスト(図)は、あくまでイメージです

 

※記事の内容は執筆時点のものです

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