好きなことはとことんやるけれど、やりたくないことは意地でもやらない子が、プロアナリストに|「自分のやりたい!」がある子はどう育ったのか
AIが登場し、人間が果たす役割が変わっていこうとしています。「いい大学、いい会社に入れば安泰」という考え方が通用しなくなっていることは、多くの方が感じているでしょう。子どもたちが、しあわせに生きていくためには、どんな力が必要なのか? 親にできることは? この連載ではやりたいことを見つけ、その情熱を社会のなかで活かしているワカモノに注目します。彼らがどんな子ども時代を過ごしたのか。親子でどんな関りがあったのか。「新しい時代を生きる力」を育てるヒントを探っていきます。
スポーツチームの「プロアナリスト」という職業を知っていますか? 選手とチームを目標達成に導くために、情報戦略面で高レベルの専門性をもってサポートするスペシャリストです。2019年のラグビーW杯での日本代表の活躍にも、アナリストの情報分析が果たした役割は大きかったといわれています。
今回の主人公はラグビートップチーム「Honda HEAT」と、女性で初めてプロアナリスト契約をした竹内佳乃さんです。高校時代からラグビーを始め、ラグビーに関わる仕事をしたいという思いを貫き、プロアナリストになった佳乃さん。いったいどのようにして、この道にたどり着いたのでしょうか? ご両親の竹内和啓さん、小苗さんに聞きました。
スポーツアナリスト 竹内佳乃さん
小さい頃から、好き嫌いがはっきりしていた
佳乃さんは2歳上の兄と弟二人に挟まれた、竹内家の唯一の女の子として、神戸で生まれ育ちました。両親ともにフルタイム勤務をしていたため、兄弟4人は全員保育園育ち。習い事は身体づくりのために全員が水泳教室に通っていたそうです。兄弟のなかでも特に活発だったという佳乃さんは、小学生で選手コースに在籍していました。
「家で練習をしなくてもいい、習い事にしようと思っていた」とお母さん。確かに働いていたら、自宅練習が必要な習い事はかなり負担が大きいですからね……。これは、ワーキングマザーの子育てに、参考になる考え方かもしれません。
佳乃さんは公立中学校に進学後、水泳部に入部します。しかし、「ほんとうはバレーボールをやりたかった」と、中1の途中でバレー部に転部。しばらくは習い事と両立していましたが、なんと水泳をやめてしまいます。
中学時代はバレーボール部の副キャプテンとしてチームを引っ張った
「小さい頃から、佳乃は自分の意思がはっきりしている子でしたね。やりたいことは言われなくてもとことんやるけれど、やりたくないことは意地でもやらないという子で。さすがに水泳は続けると思っていたので、やめるときはびっくりしましたけれど……、あえて何も言わなかったんです」(母・小苗さん)
そんな佳乃さんの性格を表す印象深いエピソードをご両親が教えてくれました。中学時代バレーボール部の副キャプテンだった佳乃さんですが、「朝練は意味がないから」と一人だけ行かなかったことがあったというのです。「さすがにそれは……」と思ったお母さんが、「副キャプテンがそんなことしていいの?」と聞くと、佳乃さんは「朝練が必要ない理由はきちんと話したんだ。でも、聞いてもらえなかったら、ええのよ」と一言。
「人からどう思われるかとか、空気を読むかとかをあまり気にしない子でした。でも、ワガママという訳ではなく。正義感が強くて、人が嫌がることはしない。頼り甲斐はあったから、信頼されていたと思います」(母・小苗さん)
人の目を気にする親御さんだったら黙っていられないことでしょう。子どもの特徴を理解して信頼していたからこそ、佳乃さんのご両親は見守ることができたのだと思います。
高校時代、女子ラグビー選手の育成アカデミーに
そんな佳乃さんの転機は高校時代。お父さんのある行動によってもたらされました。女子ラグビーが五輪種目に採用された年、近畿地区で女子ラグビー選手を募集するという新聞記事をお母さんが見つけます。そして、お父さんがこっそり応募しました。
「高校進学後、娘はバレーボールもやめて、部活に入らず遊んでいたんです。そんな娘を見て、なにか夢中になれるものが見つかると思い。応募しました」(父・和啓さん)
「練習場が近いし行ってみようかな」と、両親にすすめられるがままトライアルに参加した佳乃さん。見事アカデミーの選手候補生に選ばれ、ラグビーに夢中になります。アカデミーの練習は週1回でしたが、その後、通っていた高校の男子ラグビー部の友人から「本格的にラグビーをやりたいなら、週1回の練習だけでは足りない」と言われ、自分の意思で男子ラグビー部に入部します。男子に混じって、毎日練習に明け暮れるようになりました。女子ラグビーは遠征の機会も多く、全国に仲間も増え、世界が広がった佳乃さんは、さらにラグビーの魅力にはまっていったのです。
高校時代 女子セブンスラグビーの選手として活躍
子どもにとって必要なタイミングでちょうどよいパスを投げた両親と、それをキャッチして大きく前進し始めた佳乃さん。連携がうまくつながったようです。なにより、親子のいい関係があったことも忘れてはいけません。
強い気持ちが引き寄せた、アナリストという道
高校時代は、ラグビー選手として活躍した佳乃さんですが、大学進学後は選手ではなく、トレーナーとしてラグビー部に入部します。その当時から「とにかくラグビーに関わる仕事がしたい」と模索していた佳乃さんのもうひとつの転機が、大学2年生のときに訪れたニュージーランドでの出会いです。
たまたま見学に行った現地チームの練習に、当時のHonda HEATのヘッドコーチが来ていたのです。思い切って話しかけ、ラグビー関係の職につきたいという思いを伝えると、アナリストという職業があることを教えてもらいます。そして、「インターンでよければ、うちに勉強に来てもいい」と言ってもらったのです。
帰国後にさっそく大学のチームでもトレーナーからアナリストに転向した佳乃さん。週2回、片道2時間をかけてHonda HEATに通う修行の日々を過ごします。同級生が就職活動をするなか、努力を積み重ね、プロのアナリストとして契約を結び、現在に至っています。
一般的なルートとは異なる道を歩んで、アナリストという夢を掴んだ佳乃さんの原動力は、「とにかくラグビーが好き」という気持ち、そして「なんとしてでもラグビーに関わる仕事をしたい」という強い意思にありました。そして、その意思を尊重し、子どものやることを信頼して見守った両親の存在があったからこそ、今の道にたどり着くこともできたのでしょう。
佳乃さんのことを取り上げた会社の記事のなかで、彼女は両親について以下のように語っています。
周りの友人は一般的な就活して夏には進路が決まっている中で、私はとにかくラグビー漬けの毎日でした。その後、アナリストとしてHEATに採用されましたが、もしダメならもう一度ニュージーランドへ行って、勉強しようと思っていました。どうなるか決まらない中で、何も言わずに見守ってくれていた両親には、本当に感謝しています
ちなみにスポーツアナリストに必要な能力として、日本スポーツアナリスト協会は、情報収集分析力・伝達力のほかに、「誰にも負けない何か」をあげています。
自分の強みをもって選手をサポートすることで、かけがえのない存在として信頼を得ることにも通じる――。佳乃さんの「誰にも負けない何か」は、人の目を気にするのではなく、自分がどうしたいのかを考えて、信じたことをやり抜く力。そして失敗を恐れず、前に進む勇気と行動力ではないでしょうか。そんな佳乃さんを育てたのは、やりたいという気持ちを妨げずに見守り通した、両親からの信頼と愛情だったのだと思います。
子ども扱いはせず、一人の人間としてフラットな関係を築いてきた
佳乃さんをはじめ、4人の子どもたちを育ててきたご両親に竹内家の子育て方針について聞きました。
私たちは共働きで、特に平日はバタバタしていたので、特別なことをしたという記憶はありません。ただ夫婦ともに出かけるのが好きだったので、休日は家族でキャンプなどによく出掛けていました。自宅から会社が近かったこともあって、職場に子どもたちを連れて行くことも多かったですね。外資系企業に勤めていたので、外国籍の社員を含め、子どもたちはさまざまな大人と触れ合う機会になっていたようです。
子育てでは、“幼児言葉は使わない”と決めていました。たとえば、「パパ・ママ」「お兄ちゃん・お姉ちゃん」ではなく、私たちのことはお父さん・お母さん、兄弟同士は名前で呼ぶようにさせていました。親子や兄弟といった関係にしばられ過ぎず、「1人の人間」としてある意味対等な関係で接することは心がけていましたね。ちなみに1年に一回、写真館で家族写真を撮るときはみんな普段着です。わが家のフラットさが表れているかもしれません。
1年に1回普段着で家族写真を撮るのが竹内家の恒例行事
小学生の間は、勉強する場所をリビングに置いていました。その日にあったことや授業の話から発展して、わからないことが出てくれば、その場で広辞苑を開いて調べさせたり、新聞のおもしろそうな記事について話題にしたり、子供の視野を広げようと意識はしていましたね。
朝は忙しく、なかなか家族全員で集まれませんでしたが、夕食はみんなで揃って食卓を囲むことは意識していました。食事のあいだはテレビをつけず、会話を大事にしていましたね。わが家は、会話が雑談で終わらないんです。それぞれが自分の意見を言い合うので、賑やかな食卓でした。お風呂と寝るとき以外は、自然とみんなリビングに集まっていましたね。暖房器具がリビングにしかなかったので、居心地のよい場所にみんな集まっていただけかもしれませんが(笑)。
ご両親とも外資系企業で働いていたことから、多様性を認め合い、意見を言うことの大切さが教育方針にも表れていたのでしょう。佳乃さんを育てた竹内家の和気あいあいとした雰囲気は、ご両親が「ひとりの個人」として子どもたちと接してきた賜物かもしれません。
4人の子、みなタイプが違う。試行錯誤のなかで、自分の道を見つけてほしい
しかし、竹内家の子育ても全て順調だったわけではありません。東大に進学後、自分の道を模索して留年中の子。高校で不登校になり、通信制で卒業資格を得て今は専門学校で学んでいる子。大学生になった子は、就職活動を前にして進むべき道を悩んでいます。
「4人の子はみなタイプが違うので、接し方は変えています。今はそれぞれの子がどこに着地するのか興味深く見ています」と笑いながら、包み隠さず話してくれたご両親。お二人の言葉を聞きながら感じたのは、それぞれの子どもに対する深い愛情でした。
前述の記事のなかで、佳乃さんは以下のように話しています。
試合後の分析は夜遅くまでかかることもありますけど、それでも今の仕事は楽しい。好きだったら、どんなにしんどくても頑張れるんです
今から10年後の自分なんて、まだ見えていません(笑)。でも、一生懸命やっていれば絶対に見つかると思うから、焦っていないですよ!
「自分のやりたい」を見つけて動いてきた、佳乃さんだからこその言葉です。将来は海外のチームで活躍したいという彼女の夢の旅路は、まだ始まったばかりです。
好きだったらどんなにしんどくても頑張れる
取材を終えて
現在、佳乃さんのお父さんは徳島県神山町で地方創生プロジェクトに関わりつつ、高等専門高校の設立に向けて動かれています。お母さんと同じ外資系企業の社員から独立し、探究スクールの草分け的存在の「ラーンネット・グローバルスクール」のナビゲータとしても活躍されてきました。
「以前は子どもに期待して、期待通りにいかないとガッカリしていたこともあります。でもコーチングを学んで、ナビゲータとして子どもへの寄り添い方を学ぶなかで、自分も変わっていきました」(父・和啓さん)
今はもうしばらく、社会に出る息子たちの試行錯誤を見守るそうです。ちなみにお父さんは、大学生のキャリア支援もおこなわれています。そのなかで、若者を見ていて感じることがあるといいます。
「自分のやりたいことがわからない、という若者は本当に多いです。与えられた目標をこなしてきただけで、自分で考えてこなかったからかもしれません。そんななかで、社会に出ていきなり自分で考えるようにと言われて困るのは無理もありません。奨学金をもらっている学生も多く、借金をして興味のないことを学んでいる学生もいます。今は、学歴を得るために進学するという時代ではありません。小さいときから、自分の好きなこと、得意なことを体験のなかで知っていくことが、ほんとうに大事だと思います」(父・和啓さん)
お母さんは、子どもたちへのメッセージを残してくれました。
「小さいときは体力勝負、大きくなったら頭脳勝負。親ができることは少ないなか、子どもの成長のタネになるものはいろいろ出してみるけれど、何がその子に響くかはわかりません。これからは、親ではなくいろんな人から成長のタネをもらえるようにもなってほしいです」(母・小苗さん)
「子どもをかまっていられるのは、20年もない。最終的には自分のやりがいや、幸せを感じて生きてくれたらと願っている」というご両親の言葉に、子育てに正解はないけれど、親の願いはただひとつだと改めて思いました。子どもが自分のやりたいことを見つけて自立し、幸せそうにしている姿を見られることほど、親としての幸せなことはありませんから。
※記事の内容は執筆時点のものです
とじる
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