連載 イメージで覚える中学受験歴史

奈良時代【2】聖武天皇による仏教政治 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2020年7月08日 吉崎 正明

「難しくて苦手」という受験生が多いのが歴史。でも、時代をイメージで理解すれば歴史の理解はグンと進みます。この連載では、時代ごとの特徴的な出来事を中心に、歴史をわかりやすく解説します

奈良時代の天皇のなかで、必ず押さえておきたい天皇がいます。その天皇とは聖武天皇です。聖武天皇は、奈良時代の政治に大きな影響を与えた人物のひとり。仏教を手厚く保護し、「仏教による政治」をおこないました。

聖武天皇の政治 ―― 仏教の力に助けを求める

聖武天皇が仏教によって世の中を治めようとした理由は、当時は不吉なことが多く、世の中が大変な事態に見舞われていたからです。

聖武天皇の奥さんは光明皇后(藤原不比等の娘)ですが、その光明皇后の兄たち(藤原4兄弟)が次々と亡くなります。原因は「天然痘(てんねんとう)」というウイルス性の病気。ちなみにこの当時、天然痘によって人口の20%以上の人々が亡くなったといわれています。

聖武天皇は、こうした状況を仏教の力で回復させ、平和な世の中にしたいと願ったのです。ただ、仏教を保護しすぎたため、正式な儀式を受けずに勝手に僧になる人も多く現れました。これでは、本当に平和な世の中になるのか少し心配ですよね……。いずれにしても、聖武天皇は「とにかく仏教頼りの政治をおこなった」というイメージを持っておくと良いでしょう。

東大寺と、国分寺・国分尼寺

聖武天皇は、都に東大寺、国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)を建てる命令を出しました。仏教を広めるためには、仏教僧が修行をする寺院が必要だと考えたからです。

■東大寺:全国の国分寺・国分尼寺の中心。「総国分寺」とも呼ばれる
■国分尼寺:女性の僧(尼さん)が修行をする寺院

東大寺の大仏

東大寺には大きな大仏があります。この大仏は、当時の人々が約260万人も集まり、10年もの年月をかけ完成(造立)させました。

しかしながら造立当初、農民のなかで大仏づくりを手伝う人はほとんどいなかったそうです。当時の農民たちは税の負担が大きかったため、大仏づくりに力を貸す余裕がなかったのですね。

そこで活躍したのが、行基です。仏教のお坊さんのなかでも“スーパースター”として大人気だった行基に、大仏造立の呼びかけをする白羽の矢が立ったのです。すると、協力してくれる人が続々と集まってきました! 大仏造立以前の行基は朝廷に大変嫌われていたそうですが、大仏完成に貢献したため、仏教僧の最高位である「大僧正」の地位を与えられました。

東大寺の正倉院

東大寺の正倉院には、聖武天皇が大切にしていた遺品をはじめ、約1万点もの品々がおさめられています。ちなみに、正倉院のつくりは「校倉造(あぜくらづくり)」という建築様式をしていて、その外壁は三角形の木材のみを組み合わせてつくられています。くぎを一本も使わずにつくられているのは、びっくりですよね。

公地公民制が崩れる

「大宝律令による政治」で説明しましたが、当時の農民は朝廷から与えられる田んぼ(口分田)をもらい、そこでがんばって稲作をおこなうことで、収穫した稲のうち約3%を「租」として納めていました。そして「租」だけでなく、布を納める「庸」、地方の特産物を納める「調」といったいろいろな税を納めなければならなかったため、生活はとても苦しかったのです。

農民たちはそんな税の苦しみに耐えきれず、口分田を捨てて逃げだします。逃げ出したくなるほど、税を納めることは大変なことだったのですね。その結果、口分田は荒れていきました。荒れ果てた土地は、草がぼうぼうです……。これでは税が入らずピンチなので、朝廷はある「秘策」を打ち出しました。

三世一身の法(723年)

朝廷が打ち出した秘策とは、「三世一身の法」です。三世一身の法は、口分田不足を補うためのルールとして定められました。

■三世一身の法
・耕地を新しく開墾したものは3代まで土地の私有を認める
・荒れた田を整備したものは1代まで土地の私有を認める

三世一身の法のもとでは、耕地を新しく開墾する、または荒れた田を整備することで土地の私有が許可されるようになります。土地を自分のものにできるなんて、現代では夢のような話ですよね。

しかし当時の人々にとっては、そこまで魅力を感じるものではありませんでした。なぜなら、「耕地を新しく開墾することで私有化できる」というルールの場合、いくら1代目の人が長い年月をかけ、苦労して新しい土地を開墾したとしても、3代経ったら土地を返さなければならなかったからです。

さらに当時の人々の平均寿命は30歳前後で、女子が子供を産む年齢は10代中頃が一般的でした。つまり、100年も200年もの長い間、土地を私有できるわけではなかったのです。

これでは、「せっかくがんばって新しい土地を切り開いても、どうせすぐに朝廷に取り上げられてしまうんだ」と農民が考えてしまうのも無理はありません。当時の農民は、「積極的に新しい土地を開墾しよう!」という気持ちにはならなかったかもしれませんね。

結果として、三世一身の法はほとんど効果を上げることができませんでした。事実、20年後には廃止されることになります。そして、三世一身の法に代わる「新しいルール」が成立されました。

墾田永年私財法(743年)

新しく制定されたルールとは、「墾田永年私財法」です。墾田永年私財法とは、耕地を新しく開墾したものに対し、土地の私有を永久に認めることを定めたもの。新しく耕地を開墾したら三代までしか土地を私有化できなかった「三世一身の法」との違いは、“永久に”土地を私有化できることです。

墾田永年私財法のルールのもとでは、権力や身分によって耕地の開墾制限がありました。そして身分の高い「貴族」や「寺院」が新しい耕地が土地を特に増やし、私有地(荘園)としていったのです。

当時の私有地は「荘園」と呼ばれました。荘園は、貴族や寺院が開墾した土地のほか、そこにある建物などを含めた言い方です

公地公民制が崩れることに

墾田永年私財法が制定されたことで、朝廷は徐々に力を落としていきます。朝廷のものとしていた口分田が減っていく一方で、私有地とできる荘園が増えていったからです。つまり、奈良時代の最初のルールであった「土地と人は中央の朝廷のもの」という公地公民制が崩れていってしまったのですね。さらに世の中は仏教を保護する流れとなっていたため、正式な儀式を受けず、勝手に仏教の僧になる人も増えていきました。

■ふたつの法律の覚え方
三世一身の法(723年):なに!? 3代までなのか!
墾田永年私財法(743年):返すのナシさ、こんでええねん

道鏡の出現と奈良の終わり

聖武天皇には娘がいて、のちの孝謙天皇となります。孝謙天皇は43歳のころに病気になってしまい、道鏡という僧に看病してもらいました。するとそれをきっかけに、孝謙天皇は道鏡の大ファンになってしまいます。道鏡もノリノリで、調子に乗って政治にまで口を出すようになりました。

そこで奈良時代最後の天皇である桓武天皇は、都を移すことを決意します。理由は、政治の邪魔をする“仏教”という存在が煙たかったからです。

仏教に助けを求め、僧の力が大きくなった奈良時代

「仏教を保護するあまり、仏教の僧が調子に乗ってきた」というイメージがつかめると、奈良時代の学習は一歩前進したといえるでしょう。飛鳥時代からのつながりを思い出しつつ、この先の平安時代にどうつながるかもイメージしながら勉強すると、奈良時代を含め、歴史の楽しさをより味わうことができますよ。


これまでの記事はこちら『イメージで覚える中学受験歴史

※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。