連載 イメージで覚える中学受験歴史

平安時代【1】天皇中心の政治 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2020年9月01日 吉崎 正明

「難しくて苦手」という受験生が多いのが歴史。でも、時代をイメージで理解すれば歴史の理解はグンと進みます。この連載では、時代ごとの特徴的な出来事を中心に、歴史をわかりやすく解説します

平安時代に活躍した中心人物は、天皇・貴族・上皇・武士と、身分が異なる人物ばかりです。それぞれ個性豊かな政治をおこなったため、「4つの権力」に分けてイメージすると整理しやすいです。まずは、天皇中心の政治について見ていきましょう。

桓武天皇の政治

平安時代を理解するうえで、最も忘れてはいけないのが桓武(かんむ)天皇です。平安時代の最初の天皇ですね。桓武天皇といえば、都を奈良から京都に移した人物としても知られます。「桓」を「恒」と間違える受験生が多いので注意しましょう。

京都に都を移した理由

なぜ、奈良から京都に都を移す必要があったのでしょうか。聖武天皇をはじめとした奈良時代の朝廷がどんな政治をおこなってきたか、そこにヒントが隠されています。奈良時代の政治は、仏教の保護を手厚くおこなう政治でした。そして仏教の僧は「自分たちの思い通りにできる」と調子に乗り、政治に口を出し始めます。道鏡という僧が政治の座を狙っていたのもこの時代です。

この当時の朝廷は、「仏教むかつくな……」といった気持ちを抱いていました。つまり、仏教との関係を断ち切りたかったのです。そのため奈良から京都へ都を移すことで、仏教を遠くに追いやったのですね。

都が平安京へ(794年)

まず、784年に都が長岡京に移されました。しかし不吉なことが立て続けに起こります。長岡京の建設責任者・藤原種継(たねつぐ)が暗殺されたのもそのひとつ。建設責任者がいなくなったことで、長岡京は完成しなかったともいわれます。さらに、当時の皇太子(藤原種継を暗殺したと疑われた人物)が地方に流される途中で亡くなる事件も起こりました。このように、怖い事件が多かったのです。そこで794年に長岡京から移された都は、平和を願い「平安京」と名付けられました。

平安京には、仏教の寺院は造られませんでした。仏教から距離を置く体制が敷かれたからですね。ちなみに、平安京遷都の794年といえば「鳴くよウグイス」のゴロ合わせが有名ですが、「泣くよ坊さん」とイメージしたほうが、奈良から京都に都を移した理由も含めて覚えられますよ。

最澄と空海の「山岳仏教」

桓武天皇は、仏教が政治に口出しすることをきらって奈良から離れました。しかし「政治に関わりを持たない新しい仏教は必要だ」とも考えていたため、「政教分離政策」(政治と仏教が互いに干渉し合わない政策)を打ち出します。

この時期、唐へ留学していた最澄と空海というお坊さんが帰ってきました。ふたりは政教分離政策の方針にしたがい、平安京ではなく、遠く離れた山奥でそれぞれ新しい仏教を開きます。そして、これらの仏教は「山岳仏教」と呼ばれるようになりました。

最澄:比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)で天台宗を開く
空海:高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)で真言宗を開く

比叡山の「叡」は、受験生がとても間違えやすい漢字です。練習しておきましょう。

桓武天皇は、蝦夷を倒す命令も出した

政教分離政策を打ち出した桓武天皇ですが、覚えておきたい施策はほかにもあります。それは、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷(えぞ)を倒すように命じたことです。「蝦夷」は当時の東北地方の人々をあらわす言葉。坂上田村麻呂は命令のとおり蝦夷を倒しましたが、じつは心優しい人物といわれ、蝦夷のリーダー「アテルイ」を処刑しないように桓武天皇を説得したともいわれています。

「征夷大将軍」の意味は時代によって異なる
■平安時代:蝦「夷」を「征」討する「大将軍」
■鎌倉時代以降:武家社会トップの人の役職

仏教を遠ざけた桓武天皇

桓武天皇は、仏教が政治に口出しすることを「面倒くさいな」と感じ、都を京都へ移しました。そして平安京には仏教の寺院を造らせませんでした。平安時代は、まさに「泣くよ坊さん」といった状況だったのですね。


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吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。