連載 イメージで覚える中学受験歴史

奈良時代【1】大宝律令による政治 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2020年6月24日 吉崎 正明

「難しくて苦手」という受験生が多いのが歴史。でも、時代をイメージで理解すれば歴史の理解はグンと進みます。この連載では、時代ごとの特徴的な出来事を中心に、歴史をわかりやすく解説します

「律令政治」の仕組みと、都が平城京に移された当時の様子を見ていきましょう。

「律令政治」のはじまり

中大兄皇子と中臣鎌足が目指していた「天皇中心の政治」は、701年に大宝律令というルールができたことで実現します。

大宝律令(701年)

壬申の乱で勝利した天武天皇の子である「刑部親王(おさかべしんのう)」と、中臣鎌足の子「藤原不比等(ふじわらのふひと)」らにより、701年に大宝律令が制定されました。大宝律令は、日本ではじめての法律です。

大宝律令の「律令」とは刑罰や法律を表し、「律」は中国の唐の政治をモデルにしてつくられました。その後も唐を参考にしつつ、大宝律令にもとづいた「律令政治」が行われることになります。

律令政治のルール

ここからは、律令政治の具体的なルールを見ていきましょう。

統治システム

当時の都では、大宝律令をもとに、「二官八省」に分けられた細かな役職が貴族たちに与えられていました。それぞれの役割が与えられるのは、学校のクラスのなかで先生が生徒たちに「生き物係」や「体育係」などを任せることに似ていますね。

地方は「国・郡・里」に分けられ、都から派遣された貴族を国司、地方に住んでいる豪族を郡司、有力な農民を里長に任命し、それぞれに政治が任されていました。

土地制度

土地に関しては、飛鳥時代の「改新の詔(みことのり)」で示された以下の政治改革が正式なルールとなりました。

・公地公民……天皇や豪族が持っていた土地や人民を、すべて国家のものとする
・班田収授法……戸籍をつくり、6歳以上の男女に口分田(一定の面積の田んぼ)を与える

農民は口分田をもらったら、そこで稲作をがんばって、必ず税を納めなければなりません。税を納めるのは大変だったため、農民は口分田をもらっても嬉しくありませんでした。

税制

当時の税は、3種類ありました。

租:収穫した「稲」の約3%を国司に納める
庸:都で働く代わりに「布」を都へ納める
調:「地方の特産物」を都へ納める

全部つなげて「そようちょう」と呪文のように唱え、まずは言えるようにしましょう。

「庸」と「調」の負担が特に大きかった

「租」は地方の国司に納めるため、それほど大きな負担にはなりませんでした。一方で、特に負担が大きかったのが「庸」と「調」です。なぜなら、どんなに遠くに住んでいても奈良の都まで運ばなければいけなかったからです。この当時はもちろん車もありませんから、都と住んでいる場所を徒歩で往復したのですね。なかには、途中で力尽きて死んでしまう農民も多くいたようです。

雑徭(ぞうよう)

年間60日以内、国司のもとで強制的に働かされる仕組みもありました。これは「雑徭」と呼ばれます。読み方は「ぞうよう」で、「ざつよう」ではありませんよ! ただ、雑徭で義務づけられていた仕事は「雑用」に近かったようです。もちろん、タダ働き。自分から望んで働くならまだしも、命令されたうえにご褒ももらえず……。当時の人たちは過酷な労働を負わされていたのですね。

男子なのに、戸籍を「女子」に?

男女のあいだでは、税に関して以下のような差がありました。

租:男女ともに納めるが、口分田を多くもらえる男子のほうが負担が大きい
庸:男子のみに課される
調:男子のみに課される

税負担をはじめ、律令政治では男子ばかりが大きな負担を負うようになっていました。しかし、男子としてはなんとしても税の負担から逃れたいもの。そのため、戸籍を登録するときの性別を「女子」と書き、性別をごまかすことが続出しました。ちなみに当時の戸籍に占める女子率は、なんと全体の9割近くだった、という話もあります。

兵役の義務

大宝律令では、男子に限り「兵役の義務」が定められ、その役割によって以下のように呼ばれていました。

衛士(えじ):都を守る兵士(任期は1年間)
防人(さきもり):九州を守る兵士(任期は3年間)

「防人」のほうが任期が長い理由は、九州は中国などから敵が来やすい場所だからです。そのため、特に強いベテラン兵士を集め、3年という長い年月にわたって九州の守りを任せました。

奈良時代のはじまり ―― 都が平城京に移された

女帝である元明天皇により、都が奈良の平城京に移されました。710年のことです。そして、この年を機に「奈良時代」が始まります。奈良時代は、都が平安京に移るまでの約80年間続きました。

ちなみに「710年」などの時代の区切りは入試問題でも出題されることが多いため、語呂合わせで覚えてしまいましょう。「710年」のおすすめは、「納豆(710)ネバネバ平城京」です。納豆を敷き詰めて平城京を建てたイメージ……、を持てると良いですね。

都の生活

平城京は、唐の長安をモデルにつくられました。建物には白い壁が使われ、赤い柱が目立つなど、華やかな様子が記録に残されています。708年には「和同開珎(わどうかいちん)」というコインがつくられました。しかし、現在の100円玉などの硬貨ほど流通せず、ほとんどの人は物々交換で買い物をしていたようです。

地方の生活

都では華やかな暮らしが目立つ一方、地方の農民たちの生活は貧しくつらいものでした。地方の農民は、生きるのに精一杯で、苦しい生活を送っていたのですね。

「性別をごまかして税を逃れようとした」という話を先ほどしましたが、結局はいくらごまかそうとしても最後にはバレてしまいます。税の負担はとにかく大きかったため、口分田を捨てて逃げ出す農民や、僧となる農民もいたそうです。

こうした地方の様子は、万葉集のなかで山上憶良(やまのうえのおくら)が読んだ「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」に描かれています。

わらを敷いた竪穴住居で暮らしていた農民は食べ物もなく、ご飯を蒸す「こしき」もクモの巣だらけ。おびえて寝ている家族のもとへ、里長がムチをたたきながら税の取り立てに来る――。

ちなみに、新元号の「令和」は万葉集から引用された言葉です。

「税のしくみ」を特に押さえよう

天皇中心の政治が確立されていく一方で、農民たちは大変な苦労を負わされていました。今回お伝えした内容をよく読み返し、奈良時代の様子をイメージできるようにしてほしいと思います。特に「税のしくみ」は、まずは名称を言えるようにすること、そして漢字で書けるように練習しておきましょう。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

中学受験指導スタジオキャンパス(東京都世田谷区)講師。社会・国語担当。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任し、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。元高校球児。

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