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鎌倉時代【3】執権政治と幕府滅亡 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2020年11月25日 吉崎 正明

源氏が3代で滅びたあと、北条氏一族が執権として将軍に代わり鎌倉幕府で政治をおこないました。このような政治を「執権政治」と呼びます。16代続いた執権政治のうち、特に大切な3人の執権と、それらの人物と関係の深い出来事について見ていきましょう。

3人の執権

執権政治のなかで特に押さえておきたい執権は、2代目の北条義時、3代目の北条泰時、8代目の北条時宗です。3人とも「時」という字がついていますね。彼らの読み方は「ヨシトキ・ヤストキ・トキムネ」です。何度も声に出して覚えましょう。

【2代目】北条義時 ―― 承久の乱

ときは、1221年。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)率いる軍が、2代目執権・北条義時を倒すために幕府に攻めてきました。この戦いは「承久(じょうきゅう)の乱」と呼ばれます。当時の幕府は、源氏以外の将軍を連れてきてなんとか面目を保っていましたが、実は今にもつぶれてしまいそうな状態でした。そこで朝廷側の後鳥羽上皇は、幕府の力が弱まっている今がチャンスと考え、幕府をやっつけようと考えたのです。

一方で幕府の御家人たちは、「朝廷が攻めてきた! さすがに朝廷には逆らえないぞ……」「朝廷に味方するほうがいいかな……」と悩みます。そんな状況を見かねて立ち上がったのが、北条政子です。

尼将軍(あましょうぐん)と呼ばれた政子は、幕府の御家人に対し、一世一代の演説をおこないました。演説の効果は抜群で、御家人たちは感動し、幕府を守ることを誓ったのです。結果として幕府側は勝利し、後鳥羽上皇は隠岐(おき)に流されました。そして朝廷がこの先おかしな動きをしないように、京都には監視機関の「六波羅探題(ろくはらたんだい)」が置かれました。

【3代目】北条泰時 ―― 御成敗式目

1232年、武士による初の法律「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」がつくられました。3代目執権、北条泰時の頃です。

承久の乱のあと、朝廷よりも幕府の権力が強くなったことで、幕府の御家人たちはわがまま放題になっていました。たとえば地頭は、警察の仕事のほか、税を取り立てて国司や荘園の領主に納めることが仕事でしたが、納めるはずの税を横取りして自分のものにするなど、やりたい放題だったのです。

そこで、こうしたルール違反を取り締まるために御成敗式目がつくられました。ちなみに法律といっても、「○○という問題が起こったら、これまでは△△のように解決してきた」といったように、慣習に近い内容のものでした。

【8代目】北条時宗 ―― 元寇

1268年に8代目の執権となったのが、北条時宗です。この頃、元の軍が高麗(こうらい)を従えて攻めてきた「元寇(げんこう)」と呼ばれる出来事がありました。元寇の説明の前に、まずは「元」について見ていきましょう。

チンギス=ハンと、フビライ=ハン

13世紀前半、チンギス=ハンという人物が中央アジアを次々と支配し、モンゴル帝国という大きな国を築いていました。さらに13世紀後半になると、孫のフビライ=ハンが、モンゴル帝国に加えて中国まで支配し、「元」という新しい国をつくります。さらに、隣の高麗(当時の朝鮮半島)まで支配し、その先の島国、日本にも目を付けたのです。

黄金の国ジパング

フビライ=ハンの部下には、「マルコ=ポーロ」という名のイタリア人の商人がいました。彼は『東方見聞録』(アジアの旅行記のようなもの)のなかで、中尊寺金色堂などを見て、「日本の建物には金ばかり使われている」と考え、日本を「黄金の国ジパング」と表しました。

それを聞いたフビライ=ハンは、日本が欲しくてたまらなくなります。そして「元に降伏しなさい」という手紙を携えた遣いを日本に何度も送ったといわれますが、当時の執権・北条時宗はそれらを拒否。結果として元は、高麗を従えて日本に攻めてきたのです。

元は、1274年の文永の役(ぶんえいのえき)、1281年の弘安の役(こうあんのえき)と、2回にわたり九州へ攻めてきました。この2回の戦いをまとめて「元寇」といいます。そして元を迎え撃つため、幕府の御家人たちは九州へと向かったのです。

文永の役

元寇の1回目は、1274年に起きた文永の役です。幕府軍は、元軍の集団戦法に苦戦します。当時の日本の戦い方は、一騎打ち。左右両側に陣取った軍からひとりが出てきて、「やぁやぁ我こそは~~」と名乗り、もう一方の軍から実力に見合った者が出てくるのが慣例でした。しかし元軍は日本語が通じませんし、そもそもそんな慣例もありません。自己紹介に夢中の御家人を取り囲み、集団で攻撃をしかけてきました。

さらに元軍は、“謎の球”を投げてきます。この球は「てつはう」という名の火薬兵器。御家人たちよりも馬がこの兵器に驚き、戦場は大混乱。さらに元軍は、追い打ちをかけるように集団戦法で攻撃をしかけてきました。

こうした集団戦法や、てつはうに幕府軍が苦戦するなか、雨風が突然強くなり、暴風雨がやって来たといわれます。元軍は急いで船に戻り、暴風雨に襲われつつ、命からがら撤退していったのです。ちなみに暴風雨が理由ではなく、「武力を日本に見せつける目的が完了したので撤退した」とする説もあります。

弘安の役

元寇の2回目は、1281年に起きた弘安の役です。フビライ=ハンは、文永の役のときよりも多くの兵を日本に送り込みます。一方で幕府は、1回目の文永の役のあと、「石塁」と呼ばれる高い堤防を博多湾に築いていました。元軍は、この石塁を乗り越えないと日本に上陸できません。御家人たちの見事な守りの前に苦戦したこと、また暴風雨に見舞われたこともあり、元軍は再び日本から撤退していったのでした。

幕府内の乱れ

元寇の準備のため、借金を抱えながらも活躍した御家人たちは、御恩を楽しみにしていました。御恩とは、褒美として与えられる土地のことです。しかし元寇は、元を追い払っただけの戦い。新しい土地を獲得した戦いではなかったため、幕府は御家人に御恩を与えられません。一方で御家人は、幕府のこうした対応に不信感を募らせていったのです。

永仁の徳政令

御家人の不満に対し、幕府は1297年に「永仁の徳政令」を出します。徳政令とは、借金を帳消しにする定めのこと。御家人の借金はゼロとなりましたが、お金を貸していた商人はお金を返してもらえなくなりました。もちろん商人は、御家人に新たにお金を貸したくありません。結果として借金ができなくなり、永仁の徳政令が出された後も御家人の苦しい日々は変わらなかったのです。

鎌倉幕府の滅亡

御家人たちの不満が渦巻く幕府をみて、「今こそ幕府を倒すチャンス」と考える人物がいました。後醍醐(ごだいご)天皇です。実は幕府を倒そうと企んだことがありますが、そのときは隠岐に流されてしまっていました。しかし、その隠岐から脱出。そして当時の有力な御家人であった足利尊氏(あしかがたかうじ)や、新田義貞(にったよしさだ)の力を借り、1333年についに鎌倉幕府を滅ぼしたのです。

■「1333年鎌倉幕府滅亡」のゴロ合わせ
一味散々(1333)鎌倉幕府
……鎌倉幕府の御家人は、苦労が絶えず散々な目にあっていたため

3人の「トキ」と、後醍醐天皇

執権政治は16代も続くなど、幕府存続の大きなカギを握るものでした。特に3人の執権「ヨシトキ・ヤストキ・トキムネ」が関わった出来事は、鎌倉時代後期の大きな流れのなかでイメージしておきましょう。「後醍醐天皇」など、難しい字も出てきますが、できる限り漢字で書けるようにしておきたいですね。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

中学受験指導スタジオキャンパス(東京都世田谷区)講師。社会・国語担当。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任し、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。元高校球児。

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