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室町時代【1】室町幕府成立と足利義満 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年1月19日 吉崎 正明

元寇で御恩がもらえなかった武士は、借金をかかえます。「永仁の徳政令」と呼ばれる“借金帳消しの命令”も出されましたが、生活は苦しいままでした。そして鎌倉幕府と武士の関係が悪化するなか登場したのが、後醍醐(ごだいご)天皇です。鎌倉幕府を倒そうとするも二度失敗し、隠岐(おき)に流された後醍醐天皇でしたが、足利尊氏たちの協力、そして持ち前の負けん気の強さもあり、1333年、ついに鎌倉幕府を倒したのでした。

建武の新政

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、建武(けんむ)という元号を定め、1333年に「建武の新政」をスタートさせます。建武の新政とは、天皇や公家、貴族を中心とする政治のこと。しかし建武の新政は失敗し、たったの3年で終わってしまいました。失敗の原因は、武士への恩賞が不十分だったことです。鎌倉幕府に不満を持っていた武士は「恩賞をたくさんもらえたら嬉しいな」と建武の新政に期待していましたが、「これでは鎌倉幕府のころと一緒だ!」と怒りの声を上げていったのです。

吉野に逃れた後醍醐天皇

建武の新政に不満をもった武士たちは、「あの方ならきっと何とかしてくれるだろう」と考え、倒幕で活躍した足利尊氏のもとに集まります。そして武士たちに説得された尊氏は、後醍醐天皇と対立します。後醍醐天皇側の一番の武将とも呼ばれ、“悪党”としても名をはせた楠木正成(くすのきまさしげ)を倒し、京都を占領しました。一方の後醍醐天皇は身の危険を感じ、京都から脱出。奈良の「吉野」に逃れます。ちなみに後醍醐天皇は、自分の姿がばれないように女装して脱出したともいわれています。

南北朝時代へ

1336年、京都から脱出した後醍醐天皇に代わり、尊氏は光明(こうみょう)天皇という新しい天皇を立てます。一方で、後醍醐天皇も奈良の吉野で自らを天皇と名乗りました。天皇がふたりになったことで、朝廷もふたつに。世の中は、大混乱しました。ちなみに、北に位置する京都の朝廷は「北朝」、南に位置していた吉野の朝廷は「南朝」と呼ばれます。このふたつの朝廷が存在した期間を「南北朝時代」と呼び、1392年の南北朝合一(ごういつ)まで続きました。

室町幕府の成立 ―― 初代将軍・足利尊氏

1338年、足利尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命されました。この年が室町幕府成立の年といわれますが、「建武式目」という名の基本法を足利尊氏が制定した1336年を室町時代の始まりとする説もあります。

室町幕府のトップ・征夷大将軍には、「管領(かんれい)」という役職が補佐としてつきました。管領とは、鎌倉幕府の「執権」のような役職です。執権は北条氏一族が担当しましたが、管領は細川氏・斯波(しば)氏・畠山(はたけやま)氏の3氏が交代で担当した点は違いとして覚えておきましょう。管領を交代制にしたのは、鎌倉幕府のようにひとりの執権が権力を独占しないようにするためです。

室町幕府は、財政面で苦労した幕府でもありました。幕府の中心にいたのは、鎌倉幕府の時代にお金に困っていた武士たち。そのため財政はとても厳しかったのです。さらに、人の結束や戦力という点でも弱い幕府でした。たとえば鎌倉幕府では一般的だった「封建制度」といった主従関係は室町幕府ではあまり機能せず、一方で地方の守護たちは多くの土地や人々を従え、守護大名と呼ばれる地位にまで大きく成長していました。

室町幕府全盛期 ―― 3代将軍・足利義満

室町幕府を全盛期へと導いたのが、3代将軍の足利義満(よしみつ)です。1378年、義満は京都の室町に「花の御所(ごしょ)」という屋敷をつくり、幕府の拠点にしました(「室町幕府」と呼ばれるのは、このためといわれています)。そして財政面に弱点のある当時の幕府の状況をよく理解していた義満は、次々と政策を打ち出しました。

南北朝合一

まず、1392年に南北朝をひとつにまとめます。義満のいた北朝は武士の支持が多かった一方で、南朝を支持する武士は少なく、ひっそりと政治をおこなっていました。そこで南朝に「朝廷をひとつにして、北朝と南朝から交代で天皇を出しませんか。まずは北朝から天皇を出します」と提案。さらに「天皇の位の証拠である、三種の神器もこちらに渡してほしい」と伝え、結果として南北朝合一に成功しました。義満は、朝廷を思い通りに動かせるほど力のある政治家だったのです。

日明貿易(勘合貿易)

義満は、日明貿易も始めます。当時の幕府の財政をとにかく豊かにしたかった義満は、1368年に成立した中国の王朝・明に注目しました。明は成立して間もないため、政治が不安定なだけでなく、明や朝鮮を襲う「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊にも困っていました。そこで明は「倭寇を取り締まるので、日本と貿易しましょう」という義満の提案を受け入れます。

日明貿易では、本物の貿易船と倭寇の船を区別するため、「勘合(勘合符)」という合い札が使われました。読み方は「かんごう」です。本物の貿易船かどうか、という証明として勘合が使われたため、日明貿易は「勘合貿易」とも呼ばれます。テストでは「日明貿易」と書いても「勘合貿易」と書いても正解となりますが、「日明貿易は合い札を使ったことから何貿易と呼ばれますか」といった問い方をされる場合には勘合貿易と書いてくださいね。ちなみに義満は、貢物(みつぎもの)を中国王朝に持っていき、その返礼品を受け取るといった「朝貢形式」を心がけていました。貿易でお金がもうかれば、形式上は日本の立場が下であっても気にしなかったのです。

さまざまな税も徴収

義満は、人々からさまざまな税金も徴収しました。関所(せきしょ)を設け、関銭(せきせん)と呼ばれる通行料を課したのもそのひとつです。関所とは、国境などに置かれ、通行人の持ち物などをチェックしていた場所のこと。当時、淀川(よどがわ)流域だけでも600近い関所があったといわれます。「お金をとにかく集めよう!」といった当時の室町幕府の様子がわかりますね。そのほか、田畑を持っている人からは「段銭(たんせん)」、現在の質屋と同じく、金銭を課し出す仕事をしていた土倉(どそう)からは「土倉役」など、さまざまな税金をとりました。

「豊かな財政」を求め続けた足利義満

幕府の財政を豊かにするため動き回っていた、足利義満。結果として義満は「金閣」という別荘を建てるに至りますが、その金閣には名前の通り「金」がふんだんに使われていました。義満のがんばりもあり、当時の室町幕府の財政が豊かになっていったからこそ、このような豪華な別荘を築けたのかもしれませんね。


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吉崎 正明
この記事の著者

中学受験指導スタジオキャンパス(東京都世田谷区)講師。社会・国語担当。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任し、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。元高校球児。

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