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室町時代【2】応仁の乱とふたつの文化 ―― イメージで覚える中学受験歴史

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2021年1月21日 吉崎 正明

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室町幕府の全盛期を築いた3代将軍・足利義満とちがい、“ダメな将軍”として語られることが多いのが8代将軍・足利義政(よしまさ)です。当時の世の中に混乱を巻き起こした義政の行動とともに、応仁の乱や、室町時代に生まれたふたつの文化についても見ていきましょう。

8代将軍・足利義政

足利義政は、その性格によって当時の政治を混乱させてしまった将軍です。そもそも義政は、政治に興味がありません。一方で恋愛には関心があり、母親代わりとして育ててくれた乳母(うば)を愛してしまうほどでした。そして義政は、正妻に日野富子を迎えます。富子はとても強気な性格で、政治にも口を出し、“わいろ政治”をして金もうけをするような女性。当時の将軍だった義政も、富子には頭が上がりません。富子のせいで政治に対してさらにやる気が出なくなった義政は、「将軍の地位を早く後継ぎに譲りたいなぁ……」と考えるようになります。

しかし、仲の悪い義政夫婦のあいだに息子はいません。そこで義政は、弟の義視(よしみ)に将軍の座を譲ることを決めます。「これで次の将軍が決まった」と義政が安心していたところ、その翌年、富子は義政とのあいだに義尚(よしひさ)という名の男の子を産みました。次の将軍は、弟の義視にすでに決まっています。しかし富子はあきらめません。「あなた! わかっているわよね? つぎの将軍はこの子よ!」と、義尚を腕に抱えながら義政に迫ったとか。義政は「いやぁ、もう次の将軍は決まってるし……」とたじたじです。そんな夫の様子も気にせず、「あなた!! わかっているわよね!?」と富子はさらに詰め寄ってきます。このような状況になったとき、富子を止められる人は誰もいませんでした。

そして義政は、まさかの方法をとります。一体、どんな方法だと思いますか? 義視の将軍の座を取り消す? 富子を斬(き)ってしまう? どれも違います。なんと義政は後継ぎを決めず、家を飛び出してしまったといわれているのです。

義政の後継ぎ争い ―― 応仁の乱へ

政治に無関心な義政をよそに、残された人たちは義政の後継ぎ問題を話し合います。この議論には細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)という名の守護大名も加わっていましたが、細川勝元は「東軍」として義視側につき、山名宗全は「西軍」として義尚側につき、対立します。こうして将軍の後継ぎ争いは、大きな戦いへと発展していったのです。この戦いは1467年から11年続き、「応仁の乱」と呼ばれました。

義政の跡継ぎ問題でふたつの軍に分かれた
東軍(義視側)……細川勝元
西軍(義尚側)……山名宗全

義政は趣味にふけっていた

応仁の乱が巻き起こっているなか、義政は息子の義尚に将軍の職をゆずり、自らは隠居していました。応仁の乱の混乱もあり、人々は義政のことをすっかり忘れていましたが、応仁の乱からしばらく経ったある日、焼け野原となった京都で何かの作業に打ち込む義政の姿を見つけます。義政のそばには、建造中の建物が。実は義政は、趣味の一環として銀閣をつくっていたのです。世の中の混乱も知らず、自分の趣味にふける義政に対し、当時の武士たちの怒りが収まることはなかったでしょう。

応仁の乱の影響

応仁の乱は、はっきりとした勝敗がつかなかった戦いでした。一方で、当時の世の中には大きな影響を与えます。

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吉崎 正明

吉崎 正明

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現役塾講師。都内中学受験塾で社会・国語を担当。12年間在籍した大手進学塾では中学受験難関選抜ゼミ担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」で優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。指導方針は「正しい学習姿勢で、楽しく成績を伸ばす」。また、社会では「センス不要。イメージを作って考える」授業を実践しており、中学受験ナビでも「イメージで覚える中学受験歴史」を執筆。茨城県行方市出身。