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江戸時代【1】徳川家康の活躍 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年3月24日 吉崎 正明

江戸幕府の初代将軍、徳川家康。今川家の人質として過ごした過去を持つ家康は、「泣かぬなら/泣くまでまとう/ホトトギス」という俳句からもわかるように、とても我慢強い性格でした。一方で「たぬきおやじ」とも呼ばれ、その“ずる賢さ”で多くの改革を成し遂げた人物としても知られています。

徳川家康に関する出来事

徳川家康は豊臣秀吉と対立関係にありましたが、のちに和睦(わぼく)しています。秀吉が1590年に天下統一を果たしたとき、家康は江戸城に入り、これまで北条氏が治めていた関東の地を与えられました。

当時、北条氏の残党で荒れている関東を治めることに家康は乗り気ではなかったとか。しかし家康は「これからは江戸城を中心に頑張ろう」と気持ちを改めます。朝鮮出兵の際には「関東を守る」ことを理由に家康は日本に残り、戦いを避けたため、朝鮮からぼろぼろになって帰ってきた豊臣家とはちがって兵力や財力も消耗せずに済みました。

一方の豊臣秀吉は、家康や前田利家(としいえ)などの五大老、石田三成(みつなり)などの五奉行に「息子の秀頼(ひでより)を中心に、あとは頼んだ……」と言い残し、病死。秀吉の死は、家康にとってはチャンス。「来るべきときが来た」と確信します。

関ヶ原の戦い

朝鮮出兵に失敗して帰ってきた豊臣家は、ぼろぼろ。そこで家康は自らが天下をとろうと勢力を拡大させていきました。

しかし家康の天下統一を食い止めようとする人物がいました。五奉行のひとり、石田三成です。そして石田三成を実質的な“総大将”とする西軍と、徳川家康率いる東軍の戦いが1600年に岐阜県で起こります。これが「関ヶ原の戦い」です。

関ヶ原の戦い
西軍:石田三成
東軍:徳川家康

戦いが始まった当初は東軍より西軍のほうがわずかに兵が多く、西軍有利の状況でした。家康率いる東軍は不利な状況に追い込まれていましたが、西軍の有力人物・毛利輝元(てるもと)の不参加、そして西軍についていた小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りもあり、西軍は一気に崩れ、結果として東軍が勝利を収めました。「天下分け目の戦い」ともいわれる関ヶ原の戦いに勝利し、家康は天下人となったのです。

ちなみに戦いの当初、東軍の兵の数が少なかったのは家康の息子・秀忠(ひでただ)が大遅刻し、秀忠率いる大部隊が戦いに合流できなかったことが理由といわれています。東海道を通って関ヶ原に着いた家康軍とはちがい、秀忠軍は中山道(なかせんどう)を通り、真田昌幸(さなだまさゆき)の城を攻め落とそうとしました。結局、城を落とすことができず、その戦い終了後にようやく関ヶ原に到着したとか……。もはや遅刻ではなく、欠席ですね。

江戸幕府

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命され江戸幕府をひらきます。このとき家康は61歳(※)。今でいうところの中年男性、言葉を選ばずにいうと“おっさん”です。「いくつになっても偉業を達成できる!」といった点で中年男性に勇気を与える人物として、ここでは「おっさんのヒーロー」としてイメージしておきましょう。

※62歳とする説もあります

■年号の覚え方
1603年「徳川家康が征夷大将軍に任命される」……家康はヒーロー(16)のおっさん(03)

江戸幕府を開いた2年後、家康は将軍の座を息子の秀忠にすぐに譲りました。しかし家康は、まだまだ元気。将軍を続けようと思えば続けられました。なぜ家康は、息子の秀忠に将軍の座を譲ったのでしょうか?

そこには政治的な理由がありました。当時の政治は、豊臣秀吉の息子・秀頼(ひでより)のために進められていました。豊臣家についている人々は「家康の次の将軍は秀頼にちがいない」という期待を強く持っていたのです。秀吉も遺言のなかで「秀頼を頼んだぞ」と伝えていました。しかし家康は秀頼ではなく、自分が元気なうちに息子の秀忠に将軍の座を譲りました。なぜなら「将軍職は徳川家が代々就くものだ」とアピールしたかったからです。結果として豊臣家の人物が将軍になるのを諦めさせることに成功し、徳川家の地位はさらに高まっていきました。

大阪の陣

息子の秀忠に将軍職を譲ったあとも、大阪城にはまだ秀頼がいて、その財力も衰えていませんでした。そこで家康は「できるだけ早いうちに豊臣家の力を奪っておきたい」と考え、秀吉が造った方広寺(ほうこうじ)に目をつけます。自然災害によって壊れていた方広寺を豊臣家側に修理させ、その修繕費として金を使わせようと考えたのです。なお、修理が終わった方広寺の鐘には「国/君臣豊楽」と記されていました。これを見た家康は「家と康を区切り、豊臣が繁栄するとは何事か!」と激怒。これは完全に言いがかりですが、そのずる賢さから「たぬきおやじ」とも呼ばれていた家康。豊臣側と争うきっかけを探していたのです。この出来事は「方広寺鐘銘(しょうめい)事件」とも呼ばれ、これをきっかけに「大阪の陣」が始まります。

1614年に始まったのが、1回目の「大阪冬の陣」。大阪城(大坂城)は守りが堅いといわれ、簡単には攻め落とせないと判断した家康は豊臣側に和睦(わぼく)を申し入れます。そして和睦時に「大阪城の外堀を埋めること」を条件にしました。豊臣側はこの条件を受け入れ、徳川軍は外堀を埋め始めましたが、ついでに内堀も埋めてしまいます。豊臣側は「話が違う!」と抗議しますが、条件のやり取りを証明する書類もなかったため止めることができません。このあたりのやり取りでも、家康の抜け目のなさを感じられますね。結果として内堀も外堀もなくなり、大阪城は攻め放題。そして1615年の「大阪夏の陣」で徳川軍が勝利したのです。

大阪の陣
1回目……大阪冬の陣
2回目……大阪夏の陣

幕藩体制

江戸幕府には、将軍を補佐する役割の「老中」、非常時に臨時の最高職となる「大老」などの役職が置かれました。そして幕府は全国すべてを支配するのではなく、各地の大名に地方を支配させました。大名が支配する土地を「藩」と呼び、この政治のしくみは「幕藩体制」と呼ばれます。

当時の江戸幕府は“絶対的な頂点”として君臨していました。そのため各地の大名には多くの制限を与える一方で、ときには金を使わせることでその財力を弱らせ、忠誠心を示させました。ちなみに江戸城の外堀の石垣には、各地の大名の家紋が掘られています。この刻印は、石垣を築くために各地から大名に石を運ばせ、お金を使わせることで忠誠心を示させていた様子がうかがい知れる貴重な史料になっています。

武家諸法度

1615年、徳川秀忠が将軍のころに「武家諸法度(ぶけしょはっと)」が制定されました。武家諸法度とは各地の大名に守らせたルールのことで、大名同士は勝手に結婚してはいけない、自分の城を勝手に造ったり修理したりしてはいけない、といったことがルールとして定められました。これは現代に置き換えると「好きな子と勝手に結婚してはいけないし、お部屋の模様替えもダメだよ」と言われるようなもの。こうしたルールを守らないといけなかったため、当時の大名にはあまり自由がなかったのです。

ちなみに徳川家康は、1616年に73歳(※)で亡くなりました。一説によれば、天ぷらの食べ過ぎで死んでしまったとも言われています。

※74歳とする説もあります

■年号の覚え方
1616年「徳川家康の死」……いろいろ(1616)あって亡くなった

「ふたつの顔」を持つ徳川家康

徳川家康は、1603年に61歳で征夷大将軍の座に上り詰めた「ヒーローのおっさん(1603)」としての顔と、相手をだましながら幕府の地位をたしかなものにする「たぬきおやじ」としての“ずる賢い”一面もありました。ふたつの顔を持つ家康の人物像をイメージしつつ、江戸時代の歴史を楽しく学んでいきましょう。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。