江戸時代【1】徳川家康の活躍 ―― イメージで覚える中学受験歴史
江戸幕府の初代将軍、徳川家康。今川家の人質として過ごした過去を持つ家康は、「泣かぬなら/泣くまでまとう/ホトトギス」という俳句からもわかるように、とても我慢強い性格でした。一方で「たぬきおやじ」とも呼ばれ、その“ずる賢さ”で多くの改革を成し遂げた人物としても知られています。
徳川家康に関する出来事
徳川家康は豊臣秀吉と対立関係にありましたが、のちに和睦(わぼく)しています。秀吉が1590年に天下統一を果たしたとき、家康は江戸城に入り、これまで北条氏が治めていた関東の地を与えられました。
当時、北条氏の残党で荒れている関東を治めることに家康は乗り気ではなかったとか。しかし家康は「これからは江戸城を中心に頑張ろう」と気持ちを改めます。朝鮮出兵の際には「関東を守る」ことを理由に家康は日本に残り、戦いを避けたため、朝鮮からぼろぼろになって帰ってきた豊臣家とはちがって兵力や財力も消耗せずに済みました。
一方の豊臣秀吉は、家康や前田利家(としいえ)などの五大老、石田三成(みつなり)などの五奉行に「息子の秀頼(ひでより)を中心に、あとは頼んだ……」と言い残し、病死。秀吉の死は、家康にとってはチャンス。「来るべきときが来た」と確信します。
関ヶ原の戦い
朝鮮出兵に失敗して帰ってきた豊臣家は、ぼろぼろ。そこで家康は自らが天下をとろうと勢力を拡大させていきました。
しかし家康の天下統一を食い止めようとする人物がいました。五奉行のひとり、石田三成です。そして石田三成を実質的な“総大将”とする西軍と、徳川家康率いる東軍の戦いが1600年に岐阜県で起こります。これが「関ヶ原の戦い」です。
関ヶ原の戦い
西軍:石田三成
東軍:徳川家康
戦いが始まった当初は東軍より西軍のほうがわずかに兵が多く、西軍有利の状況でした。家康率いる東軍は不利な状況に追い込まれていましたが、西軍の有力人物・毛利輝元(てるもと)の不参加、そして西軍についていた小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りもあり、西軍は一気に崩れ、結果として東軍が勝利を収めました。「天下分け目の戦い」ともいわれる関ヶ原の戦いに勝利し、家康は天下人となったのです。
ちなみに戦いの当初、東軍の兵の数が少なかったのは家康の息子・秀忠(ひでただ)が大遅刻し、秀忠率いる大部隊が戦いに合流できなかったことが理由といわれています。東海道を通って関ヶ原に着いた家康軍とはちがい、秀忠軍は中山道(なかせんどう)を通り、真田昌幸(さなだまさゆき)の城を攻め落とそうとしました。結局、城を落とすことができず、その戦い終了後にようやく関ヶ原に到着したとか……。もはや遅刻ではなく、欠席ですね。
江戸幕府
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命され江戸幕府をひらきます。このとき家康は61歳(※)。今でいうところの中年男性、言葉を選ばずにいうと“おっさん”です。「いくつになっても偉業を達成できる!」といった点で中年男性に勇気を与える人物として、ここでは「おっさんのヒーロー」としてイメージしておきましょう。
※62歳とする説もあります
■年号の覚え方
1603年「徳川家康が征夷大将軍に任命される」……家康はヒーロー(16)のおっさん(03)
江戸幕府を開いた2年後、家康は将軍の座を息子の秀忠にすぐに譲りました。しかし家康は、まだまだ元気。将軍を続けようと思えば続けられました。なぜ家康は、息子の秀忠に将軍の座を譲ったのでしょうか?
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