江戸時代【5】大塩平八郎と水野忠邦 ―― イメージで覚える中学受験歴史
1833年から続いた天保の大飢饉(ききん)により、世の中は深刻な食料不足におちいっていました。たくさんの人々が食料を求め苦しんでいるなか、人々を助けようと立ち上がったのが江戸幕府の元役人・大塩平八郎です。
大塩平八郎の乱
天保の大飢饉(ききん)が起きたころ、大塩平八郎は儒学の陽明学者として大阪で塾の先生をしていました。全国でたくさんの死者が出ている状況に胸を痛めた大塩平八郎は、「自分が住む大阪で、何か困っている人の力になれないか」と考えます。そこで自らが出版した本を売り、その売り上げで食べ物を買い、人々を助けることにしたのです。そのうち幕府が人々を救済してくれることを信じながら……。
ところが幕府は、人々が苦しんでいる状況にもかかわらず何もしてくれませんでした。むしろ、大阪にあった食べ物を江戸に運んでいくではありませんか! 大塩平八郎は、曲がったことが大嫌いな性格。こうした状況を目にした彼は、あまりの悔しさと情けなさから、江戸幕府に対し顔を真っ赤にして怒ったといいます。そして1837年、「大塩平八郎の乱」と呼ばれる反乱を起こしました。しかし江戸幕府によってすぐにしずめられ、大塩平八郎は自害します。一方で江戸幕府にとっては、「幕府の元役人が反乱を起こした」ということが大変ショックで、ただただ驚いたそうです。
水野忠邦の「天保の改革」
その後、1841年に老中となったのが水野忠邦(ただくに)です。彼は「三大改革」のラスト、天保の改革をおこなった人物として知られます。ちなみに「てんぽ」ではなく、「てんぽう」と読んでくださいね。
当時は、幕府の元役人が反乱を起こすほど不安定な世の中。そのような状況下で水野忠邦がおこなった改革はとにかく厳しく、「享保の改革」や「寛政の改革」以上に厳しい質素倹約を人々に求めました。お菓子やごちそうを買うのも禁止となり、衣類を販売するのにも制限がかかるような状態。とにかく人々が窮屈に感じる改革だったため、江戸の町から活気が消えたといわれています。
そんな天保の改革は、具体的には次の3つの政策を中心におこなわれました。
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