連載 イメージで覚える中学受験歴史

江戸時代【6】ふたつの条約 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年8月27日 吉崎 正明

3代将軍の徳川家光以降、日本では鎖国がずっと続いていました。一方で18世紀後半、ヨーロッパで産業革命が起こります。日本で工場制手工業(マニュファクチュア)が主流だったころ、ヨーロッパではすでに手作業の生産ではなく、機械による生産が主流となっていたのです。そして機械でつくられた製品をアジアに売るため、外国船の行き来が活発になっていました。

1792年に根室(ねむろ)に来航したロシア人のラクスマンをはじめ、日本にもたくさんの外国船が来ましたが、鎖国中のため、日本はそれらの外来に応じませんでした。しかし1853年の黒船の来航により、約200年続いた鎖国はついに終わりを迎えることになったのです。

開国を求めてペリーが浦賀へ

1853年、アメリカのペリー率いる4隻の軍艦が、神奈川の浦賀にやってきます。このときの軍艦は、主に蒸気船。通称「黒船」とも呼ばれ、高性能の大砲もついており、実際に大砲を撃ちながら接近してきたといいます。そしてその様子を目にした町の人々はもちろん、江戸幕府も大慌てとなりました。

当時のこの様子は、狂歌(きょうか)のなかで「泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった4杯で夜も寝られず」として歌われています。上喜撰(じょうきせん)とは、当時の高級なお茶のこと。お茶にはカフェインが入っているので、飲むと目が覚めますが、これにかけて「蒸気船が4隻やってきて、驚いて目が覚めてしまった」ということを歌ったのです。

一度は追い返したけど……

「江戸幕府は大慌て」と先ほど説明しましたが、実は「オランダ風説書(ふうせつがき)」によると、ペリーが来るという情報は事前に江戸幕府の耳に入っていたようです。

オランダ風説書
鎖国中でも幕府と交流を続けたオランダからの報告書。世界の情報を知るための貴重な資料だった

ではペリーが来ることをわかっていながら、幕府はどうして慌ててしまったのでしょうか。それは「どうにかなるだろう」と油断して、準備をしていなかったからだ、といわれています。事実、これまでのラクスマンなどの来航に対しては、幕府はうまく対応できていました。しかし今回ばかりは、4隻の大きな軍艦を連れてきただけでなく、大砲まで飛ばしてくるではありませんか。

このとき江戸幕府は、本気で「ヤバイ……」と思ったのです。ただ、どうしたらいいかわからないので、「すみません! 来年また来てください」とペリーを説得することにしました。ペリーから開国を求める手紙は受け取ったものの、どうにか引き上げてもらうことに成功したのです。「『また来て』と言って帰ってもらったけど、1年後にはペリーもそんな約束は忘れているだろう」と願いながら ――。

なお「1853年」に関しては、イヤイヤ帰ってもらったということで「イヤでござんすペリーさん」と覚えてしまいましょう。

日米和親条約

「1年も経ってるし、さすがにペリーも約束なんて忘れているだろう」そんな江戸幕府の考えに反し、翌年になるとペリーは約束通りやってきます。しかも4隻だった軍艦を7隻(のちに2隻加わり9隻)に増やし、横浜沖に乗りこんできたのです。アメリカの本気、そして強気の姿勢がわかりますね。この来航にすっかりビビってしまった幕府は、開国をしないと「今度こそやられる」と思い、アメリカの望み通り開国に応じました。そして1854年、日米和親条約を結び、下田・函館のふたつの港を開港したのです。

このとき結んだ日米和親条約は、「日本とアメリカは仲良くしましょうね」という内容です。入港は認めますが、貿易関係は持たないことが定められました。そしてこの条約を結んだとき、判断に困った幕府は朝廷に相談します。これまでは幕府が日本のトップとして政治のあり方を決めていましたが、朝廷に相談したことで「困ったときは、結局朝廷を頼るのね」として、朝廷の権力を強めることになってしまいました。

なお、日米和親条約については次の2点を覚えておきましょう。

日米和親条約のポイント

  • 下田と函館を開港した
  • アメリカ以外に、オランダ、イギリス、ロシアとも同内容の条約を結んだ

条約を結んだ国は、それぞれの国の頭文字をとり、「アオイロ」とイメージすると良いですね。

ペリーが開国を求めた理由

ペリーが開国を求めてきたのは、次の理由からです。

ペリーが開国を求めた理由

  • 太平洋で捕鯨(ほげい)をするため
  • 中国と貿易をするため
    ※捕鯨とは「クジラを捕獲すること」

日本列島がある場所は、アメリカにとって上記のふたつをおこなうための水や食料などの補給拠点として、または中継地点として都合が良かったのですね。

日米修好通商条約

日米和親条約により開国が実現したあと、アメリカの総領事・ハリスが日本に来て、下田に開かれた領事館で仕事をおこないます。ハリスは、日本とどうしても貿易関係を結びたがっていました。そして幕府は朝廷に相談しましたが、「絶対にダメ!」と言われてしまいます。一方で「貿易はできません」とアメリカに言ったら、ペリーが来航してきたときのように多くの軍艦を連れておどしてくる可能性も。「聞き分けの悪いやつらだな」と、今度こそ攻撃をしかけられ、江戸の町が火の海になるかもしれません。そうなってしまったら、日本はおしまいです……。

こうして板挟みにあっていた幕府ですが、当時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、朝廷や大名の意見を聞かず、ハリスとの間で独断で「日米修好通商条約」を結んでしまいました。1858年のことです。ちなみに大老とは、臨時の最高職のこと。日米修好通商条約は漢字を書けるようにするだけでなく、読めるようにもしておきましょう。「ニチベイシュウコウツウショウジョウヤク、ニチベイシュウコウツウショウジョウヤク……」と唱えつつ、練習してみてください。

アメリカと条約を結んだあと、オランダやイギリス、フランス、ロシアといった国々も修好通商条約を結ぶことを求め、日本は結局5か国と条約を結ぶことになります。これらの国々は、それぞれの頭文字をとって「アオイフロ」と覚えておきましょう。ちなみに日米修好通商条約を結んだタイミングで、日本は5つの港も開港しています。兵庫・函館・長崎・新潟・神奈川の5つですね。「ひょうはなにかな(今日は何かな)」と語呂合わせで覚えてしまうのがおすすめです。

「不平等条約」の内容

日米修好通商条約は日本が損をしてしまう条約だったため、「不平等条約」とも呼ばれました。

日米修好通商条約(不平等条約)の主な内容

  1. 治外法権(ちがいほうけん)を認める
  2. 関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない

[1]治外法権を認める

治外法権とは、日本にいる外国人が罪を犯しても日本の法律で裁判をせず、領事が自国の法律を使って裁判することを指す言葉です。領事裁判権(りょうじさいばんけん)ともいわれます。たとえば、日本国内でA国の男が通行人を殺害したとします。このとき日本の法律ではもちろん有罪ですが、A国の法律で判断をすると「無罪」となる可能性もあるのです。このように治外法権の場合には、仮に凶悪犯が増えたとしても日本の法律で裁くことができません。これは不平等ですよね。

[2]関税自主権がない

関税とは、輸入品にかける税金のことです。この当時、日本以外の国々は主に機械で製品をつくっていましたが、日本はいまだに手作業でつくっていました。機械でつくった製品は短時間で大量につくれるため、手作業と比べると価格が安いだけでなく、製品ごとの個体差もあまりないので品質も悪くありません。一方で日本の手作業の製品は、つくるのに時間がかかることもあり値段が高かったのです。

皆さんも、まったく同じもので安い製品と高い製品があったら、安いものを選びますよね。当時の日本の人々ももちろん安い製品を求めていましたが、幕府としては「外国の製品が日本に入ってきたら、日本の製品が売れなくなる……」と焦りを覚えていました。そこで国内の産業を守るためにも、外国の製品には関税をかけ、外国の製品を日本国内で売れにくくしていたのです。しかし日米修好通商条約には、「関税を自主的にかける権利を日本が持つことができない」という項目、つまり「関税自主権がない」という項目が盛り込まれてしまいました。

輸出は活況だったけど……
当時の日本の主な輸出品は、生糸(きいと)と茶。一方で、主に輸入していたのは「原料」ではなく、毛織物や綿織物、武器などの「製品」です。最大貿易相手国はイギリスで、絹織物の原料になる生糸の輸出が特に活況でした。しかしとにかく売れ過ぎてしまったことで、日本国内では生糸が品不足に……。物価が高騰(こうとう)してしまった結果、人々の暮らしは苦しくなっていったのです

安政の大獄

朝廷の許しを得ず、日本が損をする「不平等条約」を結んでしまった自分勝手な井伊直弼に対し、周囲からはブーイングが止まりません。しかし井伊直弼は、自分にブーイング、つまり批判した人々を次々と処刑していきます。これは「安政の大獄(あんせいのたいごく)」と呼ばれ、自分に悪口を言った人に“仕返し”をしていったのです。

安政の大獄では、長州藩(山口県)の萩(はぎ)で松下村塾(しょうかそんじゅく)を開き、若者に勉強を教えていた吉田松陰(しょういん)なども処刑されました。

松下村塾
高杉晋作や伊藤博文など、これからの未来を築き上げる偉人たちを多く輩出した “超名門塾”

桜田門外の変

自分のやり方を押し通した井伊直弼ですが、1860年3月3日、桜田門から江戸城に駕籠(かご)に乗せられて入る手前で、待ち構えていた水戸藩や薩摩藩の浪士たちに暗殺されてしまいました。この事件は「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」と呼ばれます。ちなみにこの日は大雪が降っていたため、井伊直弼の護衛の家来たちはサビ防止のため、刀を布にくるんで持ち歩いていたとか。そしてこの状態では刀をすぐに抜けなかったので、敵にあっさりと負けてしまいました。

幕府の実質的な最高権力者の大老・井伊直弼が暗殺されたことで、江戸幕府の権威は地に落ちます。なお、井伊直弼は“悪者”のイメージを持たれがちですが、彼の地元の彦根(滋賀県)では、鎖国していた日本を開国に導いた英雄として評価されているようです。このように視点を変えてみると新たな発見があるところも、歴史のおもしろさといえますね。

一気におとろえた江戸幕府

大老の井伊直弼は、幕府の実質的な最高権力者。この井伊直弼が暗殺されたことで、財政難で困っていた江戸幕府はますますおとろえていきました。いよいよあとがなくなった、江戸幕府。この先、起死回生は図れるのでしょうか……?


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。