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江戸時代【7】攘夷から倒幕へ ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年9月30日 吉崎 正明

日米修好通商条約を結んで以来、日本製の生糸や茶が外国に輸出されたことで、国内は品不足となりました。物価も上がり、人々の生活は苦しくなります。そして「おれたちが苦しんでいるのは外国のやつらのせいだ!」として、外国人を追放すべきだという攘夷論(じょういろん)が、そして「政治は幕府ではなく天皇に任せるべきだ!」という尊王論(そんのうろん)が広がっていきました。

尊王攘夷運動

外国人は追放すべきだという「攘夷論」、政治は天皇に任せるべきだという「尊王論」が結びついた考え方が発端となり、尊王攘夷運動が起こります。この運動では、日本にいる外国人を見つけたら「とにかくやっつけよう」としました。

尊王攘夷運動の中心となったのは、薩摩藩と長州藩というふたつの藩です。彼らは江戸から遠く離れた地方の武士だったため、これまでは有名になる機会に恵まれていませんでした。そのため、いつか活躍してヒーローになり、有名になることを夢見ていたのです。そして「自分たちの手で外国人を追い払った」という実績を尊王攘夷運動でつくり、日本中から注目されることを狙っていました。

こうした動きのなかで、薩摩藩と長州藩は次のような出来事で外国と関わることになります。

薩摩藩と長州藩が関わった出来事

  • 生麦事件
  • 薩英戦争
  • 四国艦隊下関砲台占領事件

生麦事件

生麦事件とは、横浜市の「生麦(なまむぎ)」という場所で起きたイギリス人殺人事件のことです。

1862年、薩摩藩は大名行列のために生麦を移動していました。そのとき、馬に乗ったイギリス人が大名行列の前を通ろうとしたのです。この当時、大名行列の進行を邪魔することは無礼という考え方がありました。しかし、相手は外国人。日本の習慣や言葉は通じませんでしたが、「行列の邪魔をするなんて無礼者だ!」「外国人は攘夷論によって倒すべき相手だ!」と考え、薩摩藩の武士は馬ごとイギリス人を切り捨てたといわれます。

薩英戦争

生麦事件が起きた翌年、イギリスは殺された仲間のカタキ打ちのために薩摩に上陸します。このときの薩摩藩とイギリスによる戦いを「薩英戦争」といいます。読み方は「さつえい」戦争です。

ちなみに当時の戦力を考えると、薩摩藩vsイギリスではどう考えても薩摩藩に勝ち目はありませんでした。例えるなら、イギリス代表チームに対し、高校サッカーの鹿児島県選抜が立ち向かうようなものだったのです。

ところでサッカーのようなスポーツの試合では、勝ち負け関係なく、試合終わりにライバルと健闘をたたえ合うものです。実は薩英戦争が終わったあとも、「お前たち強いな。おれたちの負けだよ」「いや、君たちも強かったよ。戦いでこんなに本気になったのははじめてだ」といったかたちで、敗者の薩摩藩と勝者のイギリスは仲良くなります。そして薩摩藩は、イギリスを味方につけるようになりました。さらに、イギリスの強さを目の当たりにしたことで、「攘夷論を押し通すのは厳しいかも……」と考えるようにもなったのです。

四国艦隊下関砲撃事件

四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)は、アメリカ・オランダ・イギリス・フランスによって下関の砲台が占拠された事件です。1864年に起こりました。薩英戦争が起きたきっかけは薩摩藩でしたが、このときも先に手を出したのは日本側。この事件では、長州藩が“先制攻撃”をしかけました。

幕府をもとから信用していなかった長州藩は、下関に大砲を置いていました。そして1863年、目の前を通った外国船に大砲をぶっ放して追い払ってしまったのです。そしてその翌年、長州藩に怒ったアメリカ・オランダ・イギリス・フランスが下関までやってきました。

では、この4つの国からなる「四国連合艦隊」に長州藩が勝てるかどうか、先ほどと同じくサッカーに置き換えてイメージしてみましょう。薩英戦争のときはイギリス代表が相手でしたが、今回の相手は「アメリカ代表とヨーロッパの連合チーム」です。つまり、長州藩との戦力差は明らか。結果として、下関の砲台はすぐに占領されてしまいました。ちなみにこの当時、産業革命によって「アームストロング砲」という最新型の大砲を開発するなど、イギリスがとんでもない強さをほこっていました。そんなイギリスを含む国々に対し、長州藩は「ごめんね」と頭を下げ、彼らと協力関係を結ぶことにしたのです。

攘夷をあきらめ、倒幕へ

薩摩藩と長州藩は、薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件によって、自分たちが考えている攘夷論は「無理なんじゃないか……」と思い始めていました。もともと彼らは、日本のヒーローになりたがっていた人たち。しかし、そのために選んだ「外国人を倒してヒーローになろう」という作戦は、大失敗に終わっていたのです。

そんなとき、彼らはハッと気づきます。「強いイギリスを倒そうとしなくても、弱い幕府を倒したほうが簡単にヒーローになれるのでは?」と ―― 。いくつかの戦いを経て、薩摩藩と長州藩にはイギリスという味方もついていました。そしてこのふたつの藩は、「幕府を倒そう!」という考え、いわゆる「倒幕論」へと舵(かじ)を切っていったのです。

攘夷から倒幕への流れを押さえよう

薩摩藩と長州藩を中心とした尊王攘夷運動は、外国の圧倒的な軍事力を目の当たりにしたことで「倒幕」に方向転換していきます。結果として、幕府がその中心だった世の中が、薩摩藩と長州藩のものへと少しずつ移っていきました。薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件というふたつの出来事をイメージしながら、攘夷から倒幕へと進んでいった当時の流れをつかんでいきましょう。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。