江戸時代【7】攘夷から倒幕へ ―― イメージで覚える中学受験歴史
日米修好通商条約を結んで以来、日本製の生糸や茶が外国に輸出されたことで、国内は品不足となりました。物価も上がり、人々の生活は苦しくなります。そして「おれたちが苦しんでいるのは外国のやつらのせいだ!」として、外国人を追放すべきだという攘夷論(じょういろん)が、そして「政治は幕府ではなく天皇に任せるべきだ!」という尊王論(そんのうろん)が広がっていきました。
尊王攘夷運動
外国人は追放すべきだという「攘夷論」、政治は天皇に任せるべきだという「尊王論」が結びついた考え方が発端となり、尊王攘夷運動が起こります。この運動では、日本にいる外国人を見つけたら「とにかくやっつけよう」としました。
尊王攘夷運動の中心となったのは、薩摩藩と長州藩というふたつの藩です。彼らは江戸から遠く離れた地方の武士だったため、これまでは有名になる機会に恵まれていませんでした。そのため、いつか活躍してヒーローになり、有名になることを夢見ていたのです。そして「自分たちの手で外国人を追い払った」という実績を尊王攘夷運動でつくり、日本中から注目されることを狙っていました。
こうした動きのなかで、薩摩藩と長州藩は次のような出来事で外国と関わることになります。
薩摩藩と長州藩が関わった出来事
- 生麦事件
- 薩英戦争
- 四国艦隊下関砲台占領事件
生麦事件
生麦事件とは、横浜市の「生麦(なまむぎ)」という場所で起きたイギリス人殺人事件のことです。
1862年、薩摩藩は大名行列のために生麦を移動していました。そのとき、馬に乗ったイギリス人が大名行列の前を通ろうとしたのです。この当時、大名行列の進行を邪魔することは無礼という考え方がありました。しかし、相手は外国人。日本の習慣や言葉は通じませんでしたが、「行列の邪魔をするなんて無礼者だ!」「外国人は攘夷論によって倒すべき相手だ!」と考え、薩摩藩の武士は馬ごとイギリス人を切り捨てたといわれます。
薩英戦争
生麦事件が起きた翌年、イギリスは殺された仲間のカタキ打ちのために薩摩に上陸します。このときの薩摩藩とイギリスによる戦いを「薩英戦争」といいます。読み方は「さつえい」戦争です。
ちなみに当時の戦力を考えると、薩摩藩vsイギリスではどう考えても薩摩藩に勝ち目はありませんでした。例えるなら、イギリス代表チームに対し、高校サッカーの鹿児島県選抜が立ち向かうようなものだったのです。
ところでサッカーのようなスポーツの試合では、勝ち負け関係なく、試合終わりにライバルと健闘をたたえ合うものです。実は薩英戦争が終わったあとも、「お前たち強いな。おれたちの負けだよ」「いや、君たちも強かったよ。戦いでこんなに本気になったのははじめてだ」といったかたちで、敗者の薩摩藩と勝者のイギリスは仲良くなります。
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