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江戸時代【8】江戸幕府から新政府へ ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年10月12日 吉崎 正明

外国人を追放すべきだという「攘夷論(じょういろん)」、政治を幕府に任せず天皇に任せるべきだという「尊王論(そんのうろん)」は、幕府を倒すべきだという「倒幕論(とうばくろん)」という考えに発展しました。そして、すでに日本の中心になりつつあった薩摩藩と長州藩の間で同盟が結ばれ、倒幕に向けた勢いが加速していったのです。

薩長同盟

みなさんは、坂本竜馬(りょうま)という人物を聞いたことはありませんか? 土佐藩出身の坂本竜馬は、薩摩藩と長州藩の間に入り、1866年に薩長同盟(さっちょうどうめい)を成立させた人物です。

ちなみに「薩摩藩と長州藩が同盟を結んだ」とだけ聞くと、何となく簡単なことに感じてしまうかもしれません。たしかに「幕府を倒そう」という共通の目的を持ったふたつの藩が合わさるのは自然なことに思えますよね。

しかし、この薩摩藩と長州藩。実はお互いの意地やプライドが邪魔をして非常に仲が悪く、もともと同盟なんて結べるような関係ではなかったのです。両藩ともイギリスとは手を組んでいましたが、それぞれの藩だけで見ると決して強くはありません。これでは幕府には勝てず、倒幕なんて夢のまた夢 ――。

しかしこのとき、この状況を冷静に見つめていた人物がいました。そう、それが坂本竜馬です。彼は「新しい日本をつくるには、みんながひとつにならなければいけない」と考え、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と、長州藩の木戸孝允(きどたかよし)に対し、「意地なんて張らず、“共通の目的”のために協力しましょうよ」と歩み寄りました。この竜馬の行動が、のちの薩長同盟成立につながります。もちろん、竜馬が薩長を結びつけた“共通の目的”とは、幕府を倒すこと、つまり「倒幕」でした。

ちなみに坂本竜馬の漢字は、「竜馬」でも「龍馬」でもどちらでも正解です。彼が生きていたころは旧字体の「龍」という漢字しかなく、「竜」はその後、常用漢字として新しくつくられたものです。「歴史上の人物は本人が使っていた漢字で名前を書く」のが一般的には良しとされているため、もしもこだわりがある場合は「龍」、漢字ミスを防ぎ、とにかく1秒でも早く書きたい場合には「竜」と書くと良いでしょう。

坂本竜馬は戦争に反対だった

薩長同盟の目的は、幕府を倒すこと。そして同盟のパイプ役を担っていたのが、土佐藩の坂本竜馬です。しかし竜馬は、実は幕府と戦うことを望んでいませんでした。なぜなら、鎖国の影響で日本は他国より産業が遅れていたため、まずは「産業の発展を優先して進めなければ!」と考えていたからです。

こうしたとき、「薩長vs幕府」の戦争が起きてしまったら、どうなると思いますか? おそらく日本中が大パニックになって、産業の発展どころではなく、日本は外国からますます遅れていってしまうでしょう。だから竜馬は、戦争に反対していたのです。

薩長は「チャンスをものにしたい」と考えていた

竜馬は「戦争反対派」でしたが、一方の薩摩藩・長州藩は「幕府に勝って、日本の“中心”として全国に認めてもらいたい!」という思いを持っていました。つまり、幕府を倒したという実績がなければ、「日本でヒーローとして認めてもらえない」と考えていたのです。戦争が起こらなければ薩長同盟としては幕府を倒すことはできませんよね。

そこで両藩は「倒幕の密勅(みっちょく)を出してくれませんか」と天皇にお願いをします。倒幕の密勅とは、朝廷から薩長に出された「幕府倒幕の命令」とイメージすればOKです。これによって両藩の思惑通り、幕府との戦争が決定したのです。

ではこのとき、「戦争反対」を掲げる坂本竜馬はどう考えていたと思いますか? きっと、「このままだと戦争が起きて、日本の産業は止まってしまう。これはまずいことになるな……」と考えていたはずです。そして竜馬は、戦争を起こさずに済む「ある方法」を考えました。

大政奉還

大政奉還は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が1867年におこなった政策です。この政策によって、幕府が握っていた政権が朝廷に返されました。

慶喜は江戸幕府の最後の将軍ですが、大政奉還は慶喜が考えた案ではありません。実は、坂本竜馬が考えたアイデアでした。竜馬は土佐藩の山内豊信(とよしげ)を通じて、慶喜に対して「慶喜さん、戦争はダメです。戦争で財産を失わずに自分から政権を返せば、あなたはもちろん、全国の大名も新しい政府で良い役職につけるはずですよ」と説得していたのです。この竜馬の提案もあり、慶喜から大政奉還が出されたのでした。

■ちょっと一息

大政奉還が出された1867年という年号は、中学入試では頻出です。武士の政治が終わるため、「いやん胸毛」と語呂合わせで覚えても良いでしょう。ちなみに1167年に平清盛によって「武士の時代」が始まりましたが、このときも「いい胸毛(1167)の清盛さん」と紹介しましたね。そう、武士のイメージはどこまでいっても胸毛なんです……。

大政奉還の目的は、一時的に江戸幕府をなくすこと

大政奉還は、「江戸幕府が滅亡すること」を意味する政策ではありません。あくまで、「一時的に江戸幕府をなくす」というイメージを持っておくのがポイントです。

さて一時的に幕府をなくしたことで、一体何が起きたでしょうか?

一時的に幕府をなくしたことで起こったこと

①「倒幕の密勅」により、薩長同盟が攻めてきた

② でも、そもそも幕府がない!

③ 幕府がないから、倒そうにも倒せない……

このように、薩長同盟に出された「倒幕の密勅」が無意味となってしまったのです。これでは、「手がらを立ててヒーローになりたい!」という薩長の夢は叶いません。

物事が思い通りにいかない両藩は、このときどんな気持ちを抱いていたのでしょう。意地もプライドもあるので、かなりイライラしていたことは間違いありません。いや、悔しさのあまり号泣したかもしれませんね……。

 

王政復古の大号令

幕府が大政奉還を出したことで、薩長同盟が幕府を倒すチャンスがなくなってしまいました。想定外の状況にぽかんとするなか、それでも薩長同盟はヒーローになることを諦めきれません。

このとき特に血気盛んだったのが、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通(としみち)、そして長州藩の木戸孝允の3人組でした。のちに明治維新の「三傑(さんけつ)」とも呼ばれる彼らは、天皇に頼み込んで「王政復古(おうせいふっこ)の大号令」を出してもらうことにしました。

王政復古の大号令とは、「天皇中心の政治を復活させる」という名目で出された宣言のこと。さらに「幕府・摂政・関白という制度をなくす」という意味も含んでいました。

先ほど、幕府は大政奉還によって「幕府を“一時的に”なくす」と説明しましたよね。つまり幕府は、「あとで復活しよう」と考えていたのです。それなのに、王政復古の大号令が出されてしまったら……。「幕府」そのものを消す号令が出されることは、幕府をもう復活させられないということを意味します。そして、実際に王政復古の大号令が出されました。そう、つまりこの瞬間に、江戸幕府は滅亡してしまったのです。

戊辰戦争

王政復古の大号令が出された日、「徳川慶喜は土地を手放して引退しなさい」といったことが京都御所(ごしょ)で決められました。そして自分の処遇を勝手に決められて不満に思った慶喜は、大阪城に立てこもってしまいます。

このとき、立てこもっていただけの慶喜とは違い、怒りでぷるぷる震えていたのが“旧”幕府で慶喜につかえていた家来たち。そして怒った彼らが立ち上がったことで、坂本竜馬があれほど恐れていた戦争がついに始まってしまいました。

この戦いは「戊辰(ぼしん)戦争」と呼ばれ、京都の「鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦い」から始まり、函館の「五稜郭(ごりょうかく)の戦い」で決着を迎えます。

まさに「旧幕府軍VS新政府軍」の全面戦争でした。ちなみに戊辰戦争は、1868年の1月、つまり正月から始まった戦争です。また元将軍の徳川慶喜は、もともとは戦争を起こさないために政権を朝廷に返還したほどの人物。そのため、新政府軍と戦うことに消極的だったといわれています。

ここまでの流れを振り返ろう

江戸幕府から新政府に実権が移っていくこの時代は、歴史上の非常に大切な転換点です。一度、ここまでの流れを整理しておきましょう。

まず、「あとで復活するから一時的に幕府をなくしても問題ない」と考え、徳川慶喜が大政奉還をしましたよね。一方で、薩長同盟を中心とした「新政府軍」は、王政復古の大号令などによって幕府そのものを消し去り、さらには徳川慶喜を将軍の座から引退させようとしました。結果として幕府を復活できなくなってしまったのが、“旧”幕府軍。そして慶喜の家来たちの怒りが高まった結果として、戊辰戦争が始まってしまったのです。

鳥羽・伏見の戦い

1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが京都で起こります。この戦いは、薩長同盟を中心とした新政府軍が「錦の御旗(にしきのみはた)」をかかげて戦った戦争としても知られています。錦の御旗とは、赤地の錦(にしき)に金色の刺繍(ししゅう)をほどこした旗のこと。「天皇のために戦う」という印として使用されました。

そもそも日本人にとって、天皇は絶対的な存在です。そのため錦の御旗を見た相手側、つまり旧幕府軍の人々は戦いづらく、結局この戦いでは新政府軍が勝利を収めました。

江戸城の無血開城

1868年3月。「打倒幕府!」に燃えていた西郷隆盛が説得され、江戸城が明け渡された出来事が起こります。のちに「江戸城の無血開城」と呼ばれるこの出来事で活躍したのが、幕府で海軍の指揮をとった経験もある勝海舟(かつかいしゅう)です。彼は、かつての坂本竜馬と同じような考えを持った人物で、「今は日本で戦争などしている場合ではない。このままでは日本の力が弱くなってしまう」と主張していました。

その勝海舟に対し、幕府を倒して手がらを立てたかった西郷隆盛は、はじめは戦う気満々だったとか。そんな西郷隆盛に対し、「戦争反対派」の勝海舟は必死に説得を繰り返します。結果として説得がうまくいき、江戸城は新政府軍に引き渡されました。大きな被害を出さずに済んだこと、つまり誰も血を流さずに済んだため、この出来事は「“無血”開城」と呼ばれるのです。

会津戦争

1868年9月、東北地方で「会津(あいづ)戦争」が起こります。この戦いは、会津藩を中心に合計31の藩が「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」を結んで新政府軍と争ったことで知られ、戊辰戦争のなかでも最大の戦いといわれます。

白虎隊の悲劇

「白虎隊(びゃっこたい)」という言葉を聞いたことはありますか? 白虎隊とは、会津藩のなかでも中学生から高校生くらいの年齢の少年たちで結成された戦闘部隊のことです。その白虎隊は会津戦争でも必死な戦いを見せますが、新政府軍の攻撃に遭い、飯盛山(いいもりやま)に逃げ延びていました。

そして飯盛山で呼吸を落ち着かせていたところ、山の上から町の様子が見渡せることに気付きます。そこでふと様子を見てみると、町が炎に包まれているではありませんか。これを見た白虎隊の少年たちは、「城が落ちた。オレたちはもう負けだ……」とひどくショックを受け、お互いを刺し合い、自害してしまいます。しかし実は、このとき城はまだ落ちておらず、旧政府軍も敗北してはいませんでした。

少年たちの勘違いがあったとはいえ、あまりにも悲しい結末を迎えた彼らの話は、今もなお「白虎隊の悲劇」として語り継がれています。

五稜郭の戦い

1869年5月、戊辰戦争最後の戦い、五稜郭の戦いが函館で起こります。この戦いで旧幕府軍の榎本武揚(えのもとたけあき)が降伏し、新政府軍に城を明け渡しました。これをもって、戊辰戦争はようやく終結を迎えたのです。

ちなみに五稜郭は、空から見ると堀や城が星形になっている、とても有名な場所です。また五稜郭が位置する「函館」は、当時は「箱館」という漢字が使われていました。

幕府から新政府へ

1603年からスタートした江戸幕府中心の世の中は、1867年の大政奉還、そして王政復古の大号令といった出来事により、その幕を閉じました。江戸時代は日本の歴史のなかでもボリュームが大きく、覚えるのが大変かもしれませんが、まずは流れを丁寧にイメージしていくことで記憶に残りやすくなります。特に、政権の中心が幕府から次第に政府に移っていく様子、そして勢力が移り変わっていくなかで起きた出来事については、しっかりとイメージできるようにしておきましょう。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。