連載 イメージで覚える中学受験歴史

明治時代【1】明治維新 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年10月28日 吉崎 正明

1867年、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜により「大政奉還」が出され、政権が朝廷に返されます。このとき、幕府としては「あとで復活しよう」と考え、江戸幕府を一時的に隠すねらいがありました。戦争で負けたら財産を失うため、自分たちから政権を朝廷に返し、戦争を避けようと考えたのです。

しかし、その後の「王政復古の大号令」により幕府復活はかなわなくなり、江戸時代は終わりを迎えます。その後の時代は「一世一元(いっせいいちげん)の制」、つまり“天皇ひとりにつき元号をひとつ決める”という新ルールにともない、「明治時代」と名付けられました。

3つのかたまりでイメージしよう

まず、明治時代は「3つのかたまり」でイメージしましょう。

明治時代「3つのかたまり」
①スタート=明治維新 …… 明治新政府のルールづくり(←今回のお話)
②前半=国内政治 …… 国会ができるまで
③後半=国外政治 …… 日清戦争・日露戦争と条約改正

はじめは、戊辰戦争に勝利した明治新政府が政治のルールをゼロからつくっていく「スタート」の時期です。

次は、「前半」部分です。キーワードは、国内政治。板垣退助や伊藤博文などを中心に、国会ができるまでの時期を指します。

最後は「後半」の部分。前半とは対照的に、キーワードは国外政治です。日清戦争や日露戦争、そして江戸時代に結んだ不平等条約の改正が中心となりました。

「スタート」の時期 ―― 明治維新

明治時代の「スタート」は、1866年の薩長同盟成立から1873年頃までの明治維新の時期です。明治維新とは、新たな政府によって幕府の制度を廃止し、幕末から明治にかけて政治のしくみを変える一連の政治改革のことで、この時期は明治新政府のルールづくりがその中心となりました。

前回までのおさらい

前回、1867年の大政奉還によって政権が朝廷に返されたとお伝えしましたよね。江戸幕府は一時的に江戸幕府を“消滅”させましたが、これはあとで復活することを見越しての行動でした。しかし王政復古の大号令により、幕府の制度が廃止となります。そして幕府を復活できなくなってしまった“旧”幕府の人々は怒り、明治新政府軍と戊辰戦争を始めましたが、結局は明治新政府(※)が勝利しました。

こうしたドタバタ劇を経て、明治新政府の政治が本格的にスタートします。ただし約270年もの間、江戸幕府が政治をおこなっていたため、このときはまだ「幕府の制度」がルールとして残っていました。これらのルールは江戸幕府にとっては都合の良いものでしたが、明治新政府には使いづらいものです。そこでまずは「幕府の制度」をなくし、明治新政府の政治のルールをゼロからつくっていったのです。

※明治新政府は、「明治政府」「政府」とも呼ばれます

五か条の御誓文と五榜の掲示

戊辰戦争が起きているなか、明治新政府による政治の基本方針が明治天皇から発表されました。公家や大名向けに出された「五か条の御誓文(ごせいもん)」、そして民衆向けに出された「五榜の掲示(ごぼうのけいじ)」です。

五か条の御誓文

五か条の御誓文の内容は、次のとおりです。

五か条の御誓文(一部抜粋)
一.政治のことは会議を開き、みんなの意見で決めよう
一.上の者も下の者も、国のためにみんなで協力しよう
一.今までの悪いしきたりをやめよう
一.外国から新しい知識を得て、立派な国をつくろう

五か条の御誓文には、簡単に言うと「みんなで協力していこう」といった内容が書かれました。とてもいいルールですよね。

五か条の御誓文の目的

五か条の御誓文が発表されたのは、戊辰戦争の真っ只中の時期。戊辰戦争は、薩長を中心とした明治新政府軍と旧幕府軍の戦争でした。

このとき、明治新政府は全国の大名から冷たい視線を浴びていました。「明治新政府は薩長のやつらが中心なのか。こいつらは自分たちの名誉のためだけに戦っているだけじゃないのか?」と思われ、応援してもらえなかったのです。そこで明治新政府は「これからはみんなで協力しよう!」といったメッセージを伝えようと、戊辰戦争中のタイミングをあえて見計らい、天皇の名のもとに五か条の御誓文を出しました。すると「みんなで協力? じゃあ、おれたちの話もちゃんと聞いてくれそうだな」と大名たちは思ったのです。そう、五か条の御誓文は、「全国の大名から支持を得る」という目的のために出されたお触れでもあったのですね。

ちなみに五か条の御誓文は天皇の名のもとに出されましたが、実は福井藩の人が案をつくり、その後で土佐藩の人が修正し、さらには木戸孝允(たかよし)などによって最終的な形となったといわれています。ということは、内容を考えたのは天皇ではありません。でも「天皇の名で出された」という事実はインパクトが強く、全国の大名も「おっ!」と注目してくれたのです。

五榜の掲示

次に、五榜の掲示を見てみましょう。

五榜の掲示(一部抜粋)

  • 一揆を起こすことを禁止する
  • キリスト教を禁止する

この内容を読んで、気付いたことはありませんか? 江戸時代にも同じようなルールがありましたね。そう、民衆向けに出された五榜の掲示は、江戸時代の頃とあまり変わらない厳しいルールだったのです。

版籍奉還

1869年、「版籍奉還(はんせきほうかん)」がおこなわれました

版籍奉還
大名が治めていた土地や人民を朝廷に返すことを定めた政策。土地は「版図(はんと)」、人民は「戸籍(こせき)」とされていたので、これらを返す(奉還する)ことから版籍奉還と呼ばれました。ちなみに「版籍奉還」の漢字は間違えやすいので、書き取りの練習をしておきましょう

土地や人民が朝廷のものになるということは、天皇中心の政治に近づくということを意味します。と思ったら、実際のところはうまくいきませんでした。なぜなら、朝廷に土地と人民を返しても、大名はその藩に「知藩事(ちはんじ)」として残ったからです。つまり「朝廷が支配しているとしても、おれたちの主人は知藩事様だ!」と人々が主張し、天皇中心の政治に結びつかなかったのですね。

廃藩置県

版籍奉還から2年後の1871年、政府は「廃藩置県(はいはんちけん)」をおこないます。読んで字のごとく、藩を廃止して、県を置くという政策で、廃藩置県の当初、日本には3府302県が置かれました。現在の1都1道2府43県に比べると多いことがわかりますね。そして3府302県は、やがて3府72県となります。ちなみに3府とは、どこかわかりますか? 答えは、東京・京都・大阪です。

さて、廃藩置県のねらいは「版籍奉還の反省を生かすこと」にありました。廃藩置県では大名が知藩事として藩に残ってしまったため、いっそのこと知藩事をクビにしようと考えたのです。しかし「クビだ!」と直接伝えると、知藩事たちは武器を持って暴れるかもしれません。そこで、彼らが好きそうなものを渡すことにしました。何だと思いますか? そう、お金です。「お金をたくさんあげるから、藩を去ってね」と伝えたのです。そして、そのお金をニコニコ顔で受け入れた「元」大名たちは、東京に集められました。

天皇中心の政治基盤がつくられた

廃藩置県は、このあとの流れが重要です。大名だった知藩事が去ったあと、中央(政府)から派遣された役人がその知藩事のポジションに就任します。でも新たに就任する知事は、藩がなくなったので知藩事ではありません。そこで彼らは、府知事や県令と呼ばれました。そして県令は、1886年に「県知事」という名に改められます。現在も「千葉県知事」「宮崎県知事」のように使われますね。

明治新政府の方針を理解してくれる新しい知事が府や県をおさめるようになったため、天皇中心の政治がようやく完成に近づきました。ちなみに「中央集権国家」といわれることもありますが、これは「天皇中心の国家」という意味を指す言葉です。

富国強兵(殖産興業)

明治新政府は、国を豊かにして強い軍隊をつくろうとする「富国強兵(ふこくきょうへい)」、そして富国強兵の一環として、産業をさかんにしようとする「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」というスローガンを掲げました。

こうしたスローガンのもと、次のような政策も次々と生まれていきます。

富国強兵のもと実施された政策

  • 富岡製糸場
  • 徴兵令
  • 地租改正

富岡製糸場

1872年、政府が管理する官営模範工場として「富岡製糸場(とみおかせいしじょう)」が群馬県につくられました。「官営」という単語が出てきたら、政府が管理、または経営するものとイメージしましょう。

富岡製糸場では一度に300人以上の女性が働き、生糸を生産していました。そして、当時のフランスの機械を導入するだけでなく、フランス人の指導者がいたことも特徴です。外国の技術を学ぶため、政府はお金を払って「お雇い外国人」を日本に呼んでいたのですね。大森貝塚を発見したアメリカ人のモース、「少年よ、大志を抱け」という言葉を残したことで知られ、札幌農学校の教頭として来日したクラークもお雇い外国人として知られます。

徴兵令

徴兵令(ちょうへいれい)とは、満20歳以上の男子に兵役を義務づけた命令のことです。1873年に発せられました。兵役とは「軍隊に入り、戦場で戦う」ということですが、一家の長男や役人など、兵役を逃れられる人もいました。ちなみに当時、兵役を逃れるためのガイドブック、いわゆる“裏ワザ本”も出版されていたといいます。

なお、中学受験対策としては漢字にも注意しましょう。「微兵令」と書いてしまうと、富国強兵を掲げているにも関わらず“微妙な兵”を集める、という命令になってしまいます……。

地租改正

地租改正は、中学入試の記述問題で頻出です。「地価」(土地の値段)の「3%」を「現金」で政府に納めさせる政令のことで、徴兵令と同じく1873年に出されました。上記で「〇〇」で示した言葉はしっかりと覚えましょう。「租」を「祖」と間違えやすいので漢字にも注意が必要です。

地租改正が発せられる前は、税をお米で納めていました。それが現金で納めることになるなど、税の仕組みが大きく変わったのです。ちなみに地租改正が始まった当初は「3%」でしたが、反対の一揆が多かったため、1877年に「2.5%」まで引き下げられました。

文明開化

明治新政府の政策によって、日本に外国の文化もどんどん入ってきます。このとき、日本人の生活が洋風化したことは「文明開化」と呼ばれ、主に次の4つに変化が起きました。

文明開化で変わったこと

  • 衣食住
  • 移動手段
  • 郵便制度
  • 暦(こよみ)

ちなみに文明開化の「開化」は、文化が開くので「開化」と書きます。才能が開花するという文章で使われる「開花」と間違わないように注意しましょう。

衣食住

文明開化の影響もあり、洋服や靴、帽子などのファッションが日本人に定着します。牛肉を食べる習慣が定着したのもこの時期といわれ、当時は「牛なべ屋さん」もあったようです。そして椅子やテーブルも使うようになり、西洋風の建物も増えました。文明開化は、このように衣食住に大きな変化を与えたのです。

移動手段

馬車や自転車といった移動手段だけでなく、文明開化にともなって「鉄道」も登場しました。このときイギリスから蒸気機関車が輸入され、新橋~横浜間が開通します。ちなみに蒸気機関車は「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ばれ、当時の人々に親しまれたようです。

郵便制度

前島密(まえじまひそか)により、郵便制度も整備されました。前島密は「日本近代郵便の父」とも呼ばれ、今でも1円切手に肖像画が描かれています。

江戸時代は「飛脚(ひきゃく)」が使われていましたが、幕府や大名など一部の人が利用できるだけで、距離に応じて料金も大きく変動していました。しかし郵便制度の登場により、全国どこでもだれでも、同一料金で郵便を利用できるようになったのです。

暦(こよみ)

政府は、1872年から「太陽暦」を取り入れることに決めました。太陽暦とは、太陽の動きを基準とした日時の数え方のことで、季節の変化がわかりやすいのが特徴です。ちなみに当時、1872年の12月3日を太陽暦により1873年の1月1日としたため、なんと1872年は12月が2日しかなかったのです。

明治初期は、新しいルールを決めた時期

明治時代は、内容が盛りだくさんな時代です。そのため、時期ごとに「3つのかたまり」を明確にしておくことがポイントです。ひとつ目のかたまりは、新しいルールを決める明治維新の時期。版籍奉還、廃藩置県、富国強兵、殖産興業と四字熟語が並び、混乱するかもしれませんが、それぞれの言葉の意味を丁寧に押さえつつ、言葉のイメージをふくらませていきましょう。

明治時代「3つのかたまり」
①スタート=明治維新 …… 明治新政府のルールづくり
②前半=国内政治 …… 国会ができるまで(←次回のお話)
③後半=国外政治 …… 日清戦争・日露戦争と条約改正


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吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。