連載 イメージで覚える中学受験歴史

昭和時代【2】第二次世界大戦 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年12月04日 吉崎 正明

軍部の力も強まり、攻撃的な姿勢を続けてきた昭和初期の日本。しかしこのあと、日本の将来を大きく変える戦争を経験することになります。

第二次世界大戦

第二次世界大戦は、日本・ドイツ・イタリアの「枢軸国(すうじくこく)」側と、アメリカ・イギリス・ソ連などの「連合国」側との間で起こった戦争です。1939年9月から始まり、1945年8月に終結を迎えるまで、世界中で多数の被害を生んだ戦争となりました。

ドイツがポーランドに侵攻

前回お伝えしたように、日本は満州を占領したり、中国の南京を占領したりと、植民地獲得に向けて活発に動いていました。そんな日本の様子を見ていたドイツも、隣国のポーランドがほしくてたまらなくなります。そして1939年、ドイツはポーランドに侵攻。これに対し、ポーランドと同盟国の関係にあったイギリスとフランスがドイツに宣戦布告。これが、第二次世界大戦のはじまりです。

日独伊三国同盟

1940年、日本はドイツ(独)とイタリア(伊)と「日独伊(にちどくい)三国同盟」を結びました。当時のドイツの独裁者は、ヒトラー。独裁政権のナチスドイツを率いた人物です。一方でイタリアの独裁者は、ファシスト党のムッソリーニ。ファシズム(独裁主義)の思想をつくった人物として知られています。

ちなみに、日本は満州への侵攻をきっかけとして国際連盟を脱退していましたが、ドイツはポーランドへの侵攻、そしてイタリアはエチオピアへの侵攻によって、いずれも国際連盟を脱退していました。つまり、“脱退した国同士”で連合国に対抗しようとしたのです。

日ソ中立条約

日ソ中立条約は、1941年に結ばれた条約です。当時の日本は日中戦争で苦戦していたこともあり、さらには中国の“背中”側に位置するソ連から攻められたらひとたまりもない状態でした。そのため身の安全を確保で、ソ連と条約を結んだのです。「私たちはあなた(ソ連)と戦う気はないので、攻撃しないでくださいね」と考えていたのですね。

日ソ中立条約の締結によって安心した日本は、東南アジアのゴムなどの資源を手に入れることを目的に、軍を進めます。しかし当時の東南アジアには、連合国が持つ植民地がたくさんありました ――。

ABCD包囲陣

日本が東南アジアに進出している、という情報を知ったアメリカ・イギリス・中国・オランダは、日本に対して資源の供給を停止することを決めます。この4つの国による経済封鎖は「ABCD包囲陣」と呼ばれ、日本は資源が手に入らず苦しみました。なお、Aはアメリカ、Bはブリテン(イギリス)、Cはチャイナ(中国)Dはダッチ(オランダ)を英語表記した際の頭文字です。

特にアメリカは、日本への石油の輸出を禁止しただけでなく、東南アジアや中国から撤退するように求めてきました。そして日本とアメリカは、まさに“一触即発”の状態となっていったのです。

太平洋戦争

日本とアメリカがにらみ合いを続けるなか、日本では東条英機(とうじょうひでき)内閣が誕生します。東条英機は軍人出身の総理大臣で、太平洋戦争に向けて準備を進めた人物です。太平洋戦争は、1941年12月から1945年8月まで続きました。

真珠湾攻撃

1941年12月8日、日本はアメリカに宣戦布告。ハワイの真珠湾(しんじゅわん)を攻撃します。同日には日本陸軍がマレー半島に上陸し、イギリス軍に奇襲攻撃を仕掛けました。このふたつの攻撃が、太平洋戦争のはじまりとされています。ちなみにハワイの真珠湾を攻撃した日は、12月8日の月曜日。アメリカでは時差の関係で、12月7日の日曜日でした。大使館がお休みだったため、アメリカには日本の宣戦布告が遅れて知らされた、とも言われています。

真珠湾攻撃をきっかけにして、日本は東南アジアから南西太平洋一帯の占領に成功します。一方のアメリカは力を出し切れず、悔いが残る戦いだったに違いありません。そしてアメリカは、その怒りを“倍返し”にしてぶつけてきたのです。

ミッドウェー海戦

1942年6月、ミッドウェー海戦がぼっ発。この戦いで、これまで勝ち続けていた日本軍ははじめて敗北を経験しました。

もともと日本は、ミッドウェー島付近にあったアメリカの空母(戦闘機が離着陸する海上戦艦)を倒そうと画策していました。しかし、「ミッドウェー島を制圧する」という目的に変わってしまったとか。そしてミッドウェー島を制圧したあと、ゆっくりと燃料補給をしていたところ、アメリカの空母から飛んできた戦闘機によって空爆を受けたのです。ちなみにミッドウェー島は、日本とハワイ諸島の間にある島です。

サイパン島陥落

1944年7月には、サイパン島も占領されてしまいます。サイパン島は日本に近い場所にあったため、アメリカ軍としてはそこを拠点にすることで、日本に空襲を仕掛けやすくなりました。一方の日本は、これまでは南西太平洋一帯を占領していたものの、徐々に逃げ場をなくし、じりじりと追い込まれていきます。そしてこの頃から、日本の子供たちは疎開先の田舎へと逃げていきました。

東京大空襲

1945年3月9日から10日にかけて、アメリカが東京に空襲を仕掛けます。大量の爆弾が投下されたことにより、東京は焼け野原に。この空襲により、およそ10万人もの命が奪われました。

沖縄戦

1945年4月には、米軍が沖縄に上陸。このとき、沖縄の人々は本土から助けがくることを願って一生懸命戦い、女子学生で構成された「ひめゆり学徒隊」なども必死に負傷者の救護にあたっていました。しかし結果として24万人もの死者が出るなど、悲惨な結末を迎えたのです。

ポツダム宣言

1945年7月、ポツダム宣言が採択されます。これは日本に「無条件降伏」をうながすための宣言で、アメリカ・イギリス・中国の名で発表されました。しかし、日本はポツダム宣言を黙殺。つまり、無視したのです。

広島に原爆投下

1945年8月6日、アメリカ軍によって広島に原子爆弾が投下されます。原爆とは、ふつうの爆弾とはケタ違いの威力を持った兵器のこと。投下されると、あたり一帯に強大なエネルギーの光線が降り注ぎます。そして人々はその光線を浴び、爆風に巻き込まれるだけでなく、皮膚が焼き尽くされるほどの大やけどを負いました。資料によって諸説あるものの、およそ14万人もの命が奪われたとされています。

なお、広島市には「原爆ドーム」と呼ばれる世界文化遺産が残っていて、これは“負の遺産”として知られています。そこを訪れた人が戦争の体験や恐怖を知り、「二度と戦争はしてはならない」といったことを忘れないように、との願いが込められています。

ソ連が満州を攻撃

広島への原爆投下から3日後の1945年8月9日、「日ソ中立条約」を破棄していたソ連が、満州に攻撃を仕掛けてきました。日本としては条約を結んでいたので「北側からは攻められることはない」と安心していたため、びっくり。ちなみに満州には関東軍がいて、本来であれば日本から満州に移り住んでいた人々を守る義務がありましたが、自分たちだけ逃げ出してしまったそうです。仕方がないので、残された日本人もソ連軍から隠れるようにして日本に帰っていきました。

長崎に原爆投下

1945年8月9日には、長崎にも原爆が投下されます。この原爆により、約7万人もの命が奪われました。

ポツダム宣言を受諾

1945年8月14日、鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣によってポツダム宣言が受諾されます。こうして、第二次世界大戦はついに終戦を迎えたのです。

終戦

ポツダム宣言受諾の翌日、1945年8月15日正午。昭和天皇による玉音(ぎょくおん)放送がラジオで流れました。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……」といった内容で、この放送が日本の人々に戦争の終わりを告げることになり、さまざまな思いから涙する人も多かったそうです。

戦後の復興に向けて

戦争によって、たくさんのモノを失った日本。しかし現在の経済発展からもわかるように、ここから少しずつ、復興に向けて歩みを進めていきます。“何もない平和“は、一見すると退屈に思えるかもしれませんが、こうして戦争の歴史を見ていくと、平和な日々がどれだけありがたいことか実感できますよね。

次回は、戦後の日本について見ていきましょう。


これまでの記事はこちら『イメージで覚える中学受験歴史

※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。