【小4社会/都道府県】廃藩置県を例に「都道府県名の由来」を見てみよう|中学受験のツボ[社会編]
社会科における“九九”ともいえる「都道府県」については、地理の授業が本格的に始まる前に、その名称・位置ともに定着させておきたいところです。
受験雑誌などでよく見かけるかと思いますが、トイレや学習机の前に日本地図や世界地図を貼って、早い時期からそれらに見慣れておくのはやはり有効です。
今回は「都道府県の名前の由来」についてお伝えします。
なお、今回紹介するような「県名の由来」にお子さんが興味をもった場合は、『知らなかった!都道府県名の由来』を手に取ってみるのがおすすめです。
県名を決める「ふたつの方針」
都道府県のおおまかな形が、いまのような形に落ち着いたのは1893年ですが、そこにたどり着くまでには結構な時間がかかりました。
まず1871年の廃藩置県により、江戸時代までの支配区分である「藩」を「県」という行政区分に置き換え、中央政府がコントロールする中央集権化を宣言します。
その後、統廃合の過程で反対運動が起きたり、県庁所在地をどこにするかでもめたり、名称をどうするかで紆余曲折したり……と大混乱。こうした調整作業は内務省と、そこから派遣された県知事によって進められましたが、県名の決め方にはふたつの大まかな方針がありました。
ひとつめの方針は、“武蔵の国”などの「旧国名の排除」。新時代を印象づけることがその目的でした。
もうひとつの方針は、(おおまかに言えば)その県域の大部分を占める大藩や、主要な地位を占める強い藩があれば、その藩の名前が県名に引き継がれ、そうでなければ県庁所在地を置いた地の郡名を県名とする、というものです。
青森県は「弘前県」になっていた?
東日本の一部の県は“見せしめ”として、先ほど挙げたルール(方針)から外されてしまいます。それは、廃藩置県の直前に起きた戊辰戦争(1868~1869)で新政府軍に逆らった「奥羽越列藩同盟」に参加した県(藩)です。
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