連載 【エッセイ】騎月孝弘の「日常のなかの中学受験」

悩める子どもたちの「トイレ問題」|騎月孝弘の「日常のなかの中学受験」#2

専門家・プロ
2023年11月08日 騎月孝弘

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中学受験生といえば、家でも塾でも勉強、勉強。合格を目指して、ほっと一息つく暇もない……かといえば、直前期を除けば、そうともいえません。
中学受験勉強は多くの場合、長丁場で、子どもたちにとっては日常そのものです。ささいなことで笑ったり、楽しみで胸をときめかせていたりする姿も、たくさん見られます。
ポプラ社から中学受験小説『小さな挑戦者たち~サイコウの中学受験~』を上梓された作家 兼 現役塾講師・騎月孝弘さんが、そんな子どもたちの日常を届けるライトエッセイです。

いきなりですが、お子さんから「学校や塾でのトイレ」について、何か相談されたことはありますか?

トイレの話なんて恥ずかしい……子どもの中にはそんな思いもあるのか、悩んでいても話しにくく、親には黙っているというケースもあるようです。

デリケートな話題ですので、保護者様の間でもあまり話題にはならないかもしれません。しかし、教壇に立つ者としては、教室でもっとも気をつけていることのひとつです。

そんなわけで、今回は子どもたちの「トイレ問題」を取り上げます。

悔やんでも悔やみきれない、かつての苦い経験

じつはわたしには、かつて自分が受け持っていた校舎で、悔やんでも悔やみきれない経験をしたことがあります。もうかれこれ十年以上前の、中学受験本番も近づいてきた秋の終わり頃のこと。その日の授業も、お弁当持ちで朝から晩まで行うカリキュラムでした。

午後の授業の演習中、他のクラスを担当していた女性の先生が焦った様子でドアの外に顔を見せました。何事かと思ってわたしも廊下に出ると、彼女が小声で口早に言います。「千沙さん(仮名)がトイレに行きたいと言い出せなかったみたいで……」気づいたときには、足元が水たまりになっていたとのこと。生徒たちは他の教室に移動させて演習の続きをしてもらい、床はすべてきれいに拭き、保護者の方に連絡をしてお迎えをお願いしてから、わたしも当の教室に駆けつけて後方から中を覗きました。

千沙さんはひとり、椅子に座ったままうつむいていました。対応してくれた先生が『心配しなくていいからね』と語りかけたものの、ずっと無言だったそうです。

千沙さんは、ふだんからおとなしく、温和でまじめな子でした。宿題や課題にも積極的に取り組み、成績も安定していたと思います。それまで授業も休まず受講し、体調不良を訴えたこともありません。

その日の夜、ご家庭にお電話して、お母様から千沙さんの状況を伺いました。「お昼を食べたあとはまだトイレは大丈夫だったようですが、午後の演習中に急にもよおしたらしくて。でも、みんなすごく真剣に問題を解いている中で、とても言い出せる雰囲気じゃなかったって……ずっと我慢していたみたいなんです。それで最後は……」

それからお母様は、「教室を汚してしまい、他の生徒さんたちにもご迷惑をおかけして申し訳ありません」とおっしゃり、千沙さんの希望だからと校舎移動のお申し出をされました。

恐縮されるお母様に対して、こちらこそ本当に申し訳なさでいっぱいでした。せっかく頑張るために通ってくださっていたのに、自由にトイレに行ける雰囲気を作ってあげられなかった……。つらい思い、恥ずかしい思いをさせてしまった……。校舎を移ることになってしまったことも含め、どれだけ謝っても、悔いても、千沙さんの心の傷は癒せません。

もう決して、授業中にトイレのことで悩ませない

中学受験クラスの授業は、一般の小学生のクラスと比べてコマ数が多く、週末ともなるとお弁当持ちでの受講も珍しくありません。また、さまざまな小学校から参加するため、クラスには顔なじみが少ないということもあるでしょう。授業の演習は時間を計って解くので、常に試験本番さながらの緊張感があります。

だからこそ、子どもたちがトイレのことで悩まないように、徹底的にケアするべきでした。

それまで、授業中にトイレに行きたくなった生徒は、演習中、机間巡視している先生に申し出たり、中には教卓の前にやってきて小声で申し出たりしていました。そうしようとルールにしていたわけではないものの、それでは雰囲気的に言い出しにくいと感じる子がいて当然です。千沙さんの件の後、すぐに教室全体で対応方法を見直しました。

新たな取り組みとして生徒たちに伝えたことは、

・授業中トイレに行くときには、先生に申し出る必要はないので、解説中でも演習中でもいつでも自由に行くこと。

・熱っぽかったりだるさを感じたり、体調不良のときだけはすぐに申し出ること。

という2点です。

当初は、わたしたち講師陣も大変気を遣いました。授業の冒頭で、「飲み物はいつ飲んでもいいし、トイレも行きたくなったら我慢せずに、自由に行こう。静かに席を立って、後方のドアから出よう」と毎回毎回伝え、実際に演習中に生徒が席を立ったときにはそちらに視線を向けず、ごく自然に振る舞うよう意識しました。

なかには勝手な立ち歩きをする生徒がいないか心配する保護者様もいらっしゃるかもしれませんが、ふだんから統制のとれた教室であれば、その心配には及びません。この十年ほど見てきて、そのような問題は一度もありませんでした。

基本的に、お手洗いには休み時間に行く生徒がほとんどですが、授業中にどうしても行きたくなったときにも、いまではわたしたちから何か言わなくても生徒はふつうにトイレに立ちます。トイレの不安を感じさせないことなど、当たり前といえば当たり前のことですが、中学受験においては密かな悩みになっていることもあるかもしれません。

ご家庭でもお子さんがどんな環境にあるか一度聞いてみていただいてもよいかもしれません。もし、お子さんが遠慮しがちな性格であれば、ぜひ、行きたいときはいつでもトイレに行っていいんだということを、親御さんの口からも伝えていただけたらと思います。

試験で力を発揮するために

関連するご相談でよくいただくのが、「模試当日や入試本番におなかが痛くなったらどうしよう」、というお悩みです。当然、緊張しやすいタイプの子ほど不安になるかもしれません。すくなくとも食事面でその不安を軽減させようとする場合、ご家庭で気をつけていただきたいと私がお伝えしていることは二点です。

ひとつは、毎朝の生活リズムを変えないこと。ひとのからだには睡眠・起床・消化・排泄とリズムがあります。試験当日だけ早起きするとそのリズムが崩れます。常に同じ時間帯に起きて、同じ時間帯に食事することが大切です。ふたつ目は、試験当日も、いつもと変わらない朝食にすることです。ゲン担ぎでカツ(試験に勝つ!)にするなんてことはさすがにないと思いますが、特別メニューにしたり、いつも食べないものを出したりするとリズムが崩れます。

いずれも保護者様のお気遣い、お心遣いによって支えられていることです。お子さんにぜひ力を出し切ってほしいと願うお母様、お父様の愛情とサポートには、ともに伴走する立場のわたしたち講師にとって、本当に感謝が尽きません。受験本番の足音が聞こえてくるこの季節になると、過去への後悔もあって、ひときわそのありがたさが身に沁みてきます。

※記事の内容は執筆時点のものです

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