連載 イメージで覚える中学受験歴史

飛鳥時代【2】中大兄皇子による政治――イメージで覚える中学受験歴史

2020年5月12日 吉崎 正明

「難しくて苦手」という受験生が多いのが歴史。でも、時代をイメージで理解すれば歴史の理解はグンと進みます。この連載では、時代ごとの特徴的な出来事を中心に、歴史をわかりやすく解説します

中大兄皇子と中臣鎌足の出会い

飛鳥時代後半、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)による政治を見ていきましょう。

聖徳太子の死後、おとなしかった豪族の蘇我馬子(そがのうまこ)が暴れ始めます。さらに蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)の親子も続き、豪族が力を示すようになりました(蝦夷の父が馬子です)。こうして聖徳太子が築き上げた「天皇中心の体制」がくずれていったのです。

そこで中大兄皇子(当時の皇太子)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と話し合いました。その結果「豪族中心の政治はダメだ」と考え、蘇我氏を倒すことに決めたのです。

ちなみに中大兄皇子が中臣鎌足と出会ったきっかけは、飛鳥寺の蹴鞠会(けまりかい)という説があります。蹴鞠会とは、サッカー交流会のようなものです。スポーツで出会った仲なのですね。この蹴鞠会、以下のようなエピソードが伝えられています。

中大兄皇子が鞠を蹴ると、靴が脱げて飛んで行ってしまった。その靴を拾ってあげたのが、中臣鎌足だった。

大化の改新(645年)――蘇我氏を倒し政治改革

意気投合した中大兄皇子と中臣鎌足は、645年に朝鮮からの使いが来たときの儀式中、蘇我入鹿を暗殺します。さらに入鹿の父の蝦夷を自殺に追い込み、蘇我氏一族を滅ぼすことに成功したのです。

このように、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒し、翌646年から政治改革をおこなう流れを「大化の改新」といいます。645年に始まったので、「虫殺し」や「蒸しご飯」と覚えましょう。ちなみに「大化」は日本初の元号です。新元号の「令和」が発表されてから、元号問題は中学入試でも注目されています。

改新の詔(646年)

大化の改新のなかで、「改新の詔(みことのり)」という宣言が出されました。改新の詔は、主に次のような政治改革の方針を示した命令のことです。

■「改新の詔」で示された主な政治改革
・公地公民
・班田収授法

公地公民――天皇や豪族が持っていた土地や人民を、すべて国家のものとする

蘇我氏の権力が強かったのは、土地や人民をたくさん持っていたためです。そこで今後は同じような豪族が現れないように、天皇や豪族が土地や人民を個人的に持つことを禁止しました。

班田収授法――戸籍をつくり、6歳以上の男女に「口分田」という名の一定の面積の田んぼを与える

土地を国家のものにしても、利用しなければ草がぼうぼうの土地になってしまいます。そこで戸籍(登録名簿)をもとに国民に「口分田(くぶんでん)」を与え、稲作をさせることにしました。

ただ、国民は口分田をもらっても喜びませんでした。与えられた口分田で仕事をしても、収穫した稲を税として納めなければならないからです。しかも戸籍が6年ごとに更新される関係で、口分田は6年後に国家に返さなければなりません。「田んぼをもらえたからラッキー!」ではなかったのですね。ちなみに税制などの仕組みが正式にルール化されたのは、701年に「大宝律令」が制定されてからです。大化の改新から、およそ50年後ということになります。

白村江の戦い(663年)――中大兄皇子VS.唐と新羅の連合軍

日本が天皇中心の政治をめざしていたころ、朝鮮半島では地域同士の関係が悪くなっていました。特に、唐と手を組んだ新羅(しらぎ)の力が強くなり、日本に仏教を伝えた百済(くだら)が滅ぼされてしまいます。

そんな百済から生き延びた人から頼まれ、中大兄皇子は、唐と新羅の連合軍と戦います。この戦いは、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)という地域で行われたことから「白村江の戦い」と呼ばれます。勝てば「日本が世界デビューを果たせる」と考えたのかもしれません。ところが、勢いのある新羅と、大帝国として恐れられていた唐の強力タッグを前に、中大兄皇子の軍は負けてしまいました。

「とにかく国内を守ろう」と決意

すっかりビビってしまった中大兄皇子は、「今は自分たちの国を守れるようにならないと絶対にマズい!」と考え、朝鮮半島には手を出さず、とにかく国内を守ろうと決意します。

そこで、まずは北九州の「大宰府(だざいふ)」の守りを固めました。唐や新羅が攻めてきた場合のことを想定し、船で上陸しやすい九州から守ることにしたんですね。ちなみに大宰府とは、当時の役所のことです。大宰府は各地にありましたが、奈良時代に律令政治が始まると北九州のみに置かれました。そして大宰府は、「防人(さきもり)」という名の専門の防衛軍に守らせました。さらに大宰府の北には、敵の侵入を防ぐための堤防として「水城」を建設します。水城は、「すいじょう」ではなく「みずき」と読みます。

そして667年には、飛鳥の都を近江国(現在の滋賀県)の大津宮(おおつのみや)に移しました。国内政治を無事に進めるため、都をより山奥のほうに移したのでしょう。唐や新羅が攻めてきても、山奥に都があればとりあえず大丈夫そうですよね。翌668年には、中大兄皇子は「天智天皇」となりました。

ここまでお伝えしてきた「中大兄皇子は白村江の戦いでの負けをきっかけに国内政治に力を入れ、自ら天皇になった」という流れを、まずはイメージできるようにしておきましょう。

天智天皇は、中臣鎌足に「藤原」という氏を授けた

669年に中臣鎌足が死んでしまいます。天智天皇は中臣鎌足のこれまでの協力に感謝し、最高の冠位を与え、「藤原」という氏(うじ)を授けました。そのため、中臣鎌足は「藤原鎌足」とも呼ばれます。天智天皇も、2年後の671年に死んでしまいます。そして天智天皇の死により、この後の天皇の後継ぎ争いが大変なことになりました。

壬申の乱(672年)

壬申の乱(じんしんのらん)とは、天智天皇の後継ぎ争いを発端として起こった内乱のことです。天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天智天皇の息子の大友皇子(おおとものおうじ)との間で起こりました。

天智天皇が即位したころ、大海人皇子は次期天皇として見込まれ、重要な役職に任命されていました。ところが671年になるとクビにされてしまい、天智天皇は息子の大友皇子を重要な役職に任命します。わけがわからなくなった大海人皇子は、面倒なことに巻き込まれたくなかったので都から離れました。しかし天智天皇の死後、「都に残った大友皇子が大海人皇子を倒すための準備をしているらしいぞ」という情報を聞き、大友皇子と戦う決意をしたといわれています。その後、大海人皇子は大友皇子に勝ち、「天武天皇」として即位しました。

中大兄皇子に関するストーリーを理解しよう

中大兄皇子に関する出来事は、以下のようなストーリーで押さえましょう。

■中大兄皇子に関する出来事
・「大化の改新」で蘇我氏を倒した
・「白村江の戦い」でボロ負けし、国内政治に力を入れ天智天皇になった
・後継ぎ争いの「壬申の乱」の結果、弟の大海人皇子が天武天皇となった

ストーリーをもとに前後の関係を理解すると、歴史上の出来事をイメージできるようになりますよ。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。