飛鳥時代【2】中大兄皇子による政治 ―― イメージで覚える中学受験歴史
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中大兄皇子と中臣鎌足の出会い
飛鳥時代後半、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)による政治を見ていきましょう。
聖徳太子の死後、おとなしかった豪族の蘇我馬子(そがのうまこ)が暴れ始めます。さらに蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)の親子も続き、豪族が力を示すようになりました(蝦夷の父が馬子です)。こうして聖徳太子が築き上げた「天皇中心の体制」がくずれていったのです。
そこで中大兄皇子(当時の皇太子)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と話し合いました。その結果「豪族中心の政治はダメだ」と考え、蘇我氏を倒すことに決めたのです。
ちなみに中大兄皇子が中臣鎌足と出会ったきっかけは、飛鳥寺の蹴鞠会(けまりかい)という説があります。蹴鞠会とは、サッカー交流会のようなものです。スポーツで出会った仲なのですね。この蹴鞠会、以下のようなエピソードが伝えられています。
中大兄皇子が鞠を蹴ると、靴が脱げて飛んで行ってしまった。その靴を拾ってあげたのが、中臣鎌足だった。
大化の改新(645年)――蘇我氏を倒し政治改革
意気投合した中大兄皇子と中臣鎌足は、645年に朝鮮からの使いが来たときの儀式中、蘇我入鹿を暗殺します。さらに入鹿の父の蝦夷を自殺に追い込み、蘇我氏一族を滅ぼすことに成功したのです。
このように、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒し、翌646年から政治改革をおこなう流れを「大化の改新」といいます。645年に始まったので、「虫殺し」や「蒸しご飯」と覚えましょう。ちなみに「大化」は日本初の元号です。新元号の「令和」が発表されてから、元号問題は中学入試でも注目されています。
改新の詔(646年)
大化の改新のなかで、「改新の詔(みことのり)」という宣言が出されました。改新の詔は、主に次のような政治改革の方針を示した命令のことです。
■「改新の詔」で示された主な政治改革
・公地公民
・班田収授法
公地公民――天皇や豪族が持っていた土地や人民を、すべて国家のものとする
蘇我氏の権力が強かったのは、土地や人民をたくさん持っていたためです。そこで今後は同じような豪族が現れないように、天皇や豪族が土地や人民を個人的に持つことを禁止しました。
班田収授法――戸籍をつくり、6歳以上の男女に「口分田」という名の一定の面積の田んぼを与える
土地を国家のものにしても、利用しなければ草がぼうぼうの土地になってしまいます。そこで戸籍(登録名簿)をもとに国民に「口分田(くぶんでん)」を与え、稲作をさせることにしました。
ただ、国民は口分田をもらっても喜びませんでした。与えられた口分田で仕事をしても、収穫した稲を税として納めなければならないからです。しかも戸籍が6年ごとに更新される関係で、口分田は6年後に国家に返さなければなりません。「田んぼをもらえたからラッキー!」ではなかったのですね。ちなみに税制などの仕組みが正式にルール化されたのは、701年に「大宝律令」が制定されてからです。大化の改新から、およそ50年後ということになります。
白村江の戦い(663年)――中大兄皇子VS.唐と新羅の連合軍
日本が天皇中心の政治をめざしていたころ、朝鮮半島では地域同士の関係が悪くなっていました。特に、唐と手を組んだ新羅(しらぎ)の力が強くなり、日本に仏教を伝えた百済(くだら)が滅ぼされてしまいます。
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