
平安時代【3】上皇中心と武士中心の政治 ―― イメージで覚える中学受験歴史
平安時代は、4つの政治に代表される時代です。今回は後半の残りふたつ、「上皇中心の政治」と「武士中心の政治」について見ていきましょう。
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上皇中心の政治
平安時代3つめの政治、上皇中心の政治について説明します。あらかじめ貴族中心の政治について簡単に復習をおこなっておくと、スムーズに流れをつかめますよ。
貴族時代の終わり
平安時代中期は、貴族が政治の実権を握っていました。特に大きな力を持っていたのが、自分の娘を天皇と結婚させ、天皇の外戚(母方の親戚)となった藤原氏です。藤原氏は天皇の代わりに政治をおこない、力を発揮しました。天皇中心の政治から始まった平安時代は、藤原氏の登場により、いつのまにか貴族中心の政治へと移り変わっていったのですね。まさに、天皇中心の政治を貴族が横取りしていった形です。こうした状況は、天皇や朝廷にとっては納得がいかない話。天皇のほうが貴族よりも立場は上ですし、年齢的にも、当時の天皇から見たら貴族は“オジサン”。そこで天皇中心の政治を再び取り戻そうと、チャンスをうかがっていたのでした。
白河上皇の院政
栄華を誇っていた藤原氏でしたが、次第に朝廷から遠ざかっていきます。藤原頼通(よりみち)の娘に息子が生まれず、藤原氏の血筋とは遠い天皇が誕生するようになっていたからです。これをチャンスと考えた朝廷は、ついに政治の実権を貴族から奪還。そして当時の白河天皇は、1086年に天皇の座を息子にゆずり、自らは「上皇」(後継者に地位をゆずった天皇)となりました。
「院」という場所で政治をおこなったことから、上皇としておこなう政治は「院政」と呼ばれます。院の周りには武士が配置され、上皇の近くの目立つ場所で活躍したこともあり、武士の力も強くなっていきました。ちなみに院政開始の1086年は、「入れ歯6本(1086)白河上皇」とイメージすると覚えやすいですよ。
天皇と上皇の対立
院政が始まり、めでたしめでたし――、といいたいところですが、ここでちょっと考えてみてください。「そもそも、天皇を辞めた人(上皇)がどうして政治をやっているの?」と思いませんか。当時、このように実際に思った天皇がいたのです。それもそのはず。政治をおこなうのは、これまで天皇の役割でしたからね。こうして1156年、当時の天皇であった後白河(ごしらかわ)天皇と、崇徳(すとく)上皇との間に争いが起こりました(保元の乱)。
実の兄弟同士で争われた保元の乱は、後白河天皇が勝利。このとき、天皇側につき大活躍したのが、平氏の平清盛(たいらのきよもり)と、源氏の源義朝(みなもとのよしとも)です。こうして武士たちは、一気に周囲の注目を浴びることになります。ちなみに、この戦いで同じような手柄を立てたにも関わらず、平清盛のほうがほうびを多くもらったそうです。これに対し、源義朝は納得いきません。そして、1159年に平治の乱が起こりました。武士のなかの“真のナンバーワン”を決めるこの争いに勝ったのは、平清盛。負けた源義朝は処刑されてしまいます。
武士中心の政治
いよいよ、政治の中心が上皇から武士に移り変わり、平安時代も終わりが見えてきました。平清盛による、武士中心の政治を見ていきましょう。
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