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鎌倉時代【1】源平合戦3つの戦い ―― イメージで覚える中学受験歴史

2020年11月04日 吉崎 正明

平治の乱にて、平清盛に敗れた源氏。源義朝(みなもとのよしとも)は処刑され、その息子の頼朝(よりとも)は伊豆に流されました。しかし頼朝は平氏に負けた悔しさを忘れず、約20年の時を経た1180年、伊豆から兵を挙げます。この出来事から1185年の壇ノ浦(だんのうら)の戦いまでが「源平合戦」と呼ばれ、頼朝は鎌倉に入り、活動の拠点としました。

平氏は「い・や・だ」の3つの戦い

いくつもの戦いをまとめて「源平合戦」と呼ばれますが、そのなかでも特に源氏が平氏を追い詰めた戦いを3つ紹介します。合言葉は、平氏は「い・や・だ」です。

一ノ谷の戦い

「い・や・だ」の「い」は、1184年の一ノ谷(いちのたに)の戦いです。一ノ谷の戦いでは、源頼朝の弟・義経(よしつね)が大活躍しました。

一ノ谷は現在の神戸市にあたる場所ですが、断崖絶壁の崖があることでも有名です。目の前には海、後ろには山が控えるこの崖は、守りを固める場所としてはぴったり。平氏は、この崖の下に陣取りました。対して義経の軍は、鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる山道を登り、平氏を見下ろせる位置に陣取ります。あまりの崖の険しさに「この崖を本当に降りるんですか?」と家来たちはおそるおそる義経に聞いたようですが、そこは血気盛んな義経。「鹿もこの崖を降りていた。馬でも大丈夫だ!」と猛スピードで駆け降り、平氏に襲いかかりました。もともと義経は、こうした奇襲が得意。相手のスキをつく作戦が功を奏し、平氏は徐々に追い込まれていきます。

屋島の戦い

続いて「い・や・だ」の「や」は、1185年の屋島(やしま)の戦いです。香川県の屋島で繰り広げられたこの戦いでも、源氏は勝利を収めます。屋島は、現在の香川県高松市のこと。当時、香川県は讃岐(さぬき)国とよばれていました。

屋島の戦いでは、平氏が掲げた扇の的を、源氏軍の那須与一(なすのよいち)という弓の達人が射抜いたというエピソードがあります。的までの距離は諸説ありますが、70m以上はあったとか。現代でもアーチェリーという競技がありますが、世界大会の的の距離もおよそ70m。那須与一が今でも生きていたら、すごい記録を打ち出したかもしれませんね。

壇ノ浦の戦い

一ノ谷、屋島と追い込み、最後は「だ」の戦い、関門海峡付近でおこなわれた壇ノ浦の戦いです。壇ノ浦の「壇」の字は、漢字で書けるように練習しておきましょう。

壇ノ浦の戦いは、主に船上で弓を使って争われた戦いですが、義経は平氏の「船の漕ぎ手」を狙うように指示します。当時、武器を持たない漕ぎ手を狙うのはNGとされていましたが、義経はその暗黙のルールを破り、平氏の船の動きをとめ、集中攻撃をかけました。結果として、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡。平清盛が太政大臣となってわずか18年ほどで、平氏中心の時代は終わりを告げたのです。

源平合戦後 ―― 頼朝と義経の対立

念願の“打倒平氏”を実現した一連の流れのなかで、特に活躍したのが義経です。義経は朝廷に呼ばれ、役職を与えられました。

朝廷から評価され、思わず笑顔もこぼれてしまったことでしょう。義経は得意満面で、兄の頼朝が待つ鎌倉へと戻ります。しかし義経を待っていたのは、怒りで顔を真っ赤にした頼朝でした。それもそのはず、頼朝は源氏のリーダーで、さらに義経のお兄ちゃん。弟ばかり朝廷に褒められ、兄として悔しくないわけがありません。

「役職をもらって、俺よりも偉くなろうとしているな?」「私はそんなこと考えていません!」と対立するなか、義経は「これ以上怒らせると、兄さんは何をしてくるかわからない……」と考え、行方をくらまします。一方で頼朝は、「このまま義経を放っておくと面倒なことになりそうだ」と考え、義経を捕らえるための準備を始めたのでした。

守護と地頭が置かれた

頼朝は朝廷に頼み、国ごとに守護、荘園ごとに地頭(じとう)を置きました。全国に配置された警察の本部長が「守護」、荘園ごとに集金をする人(年貢を取り立てる人)が「地頭」とイメージするとわかりやすいでしょう。

頼朝が守護と地頭を置いた目的は、義経を捕らえるためです。しかし実は、そこには真の目的がありました。それは「守護・地頭を置くことで、自分の手で全国を支配する」というもの。「おれが全国を支配するから守護と地頭を置かせてね」と朝廷に頼んでも、当時のトップに君臨していた朝廷は許可してくれません。そのため頼朝は、「義経を捕らえる」という口実をもとに、守護と地頭を置いてもらったのです。

奥州藤原氏の滅亡

兄に追われていた義経は、平泉の奥州(おうしゅう)藤原氏にかくまわれていました。しかし、その居場所が頼朝にバレてしまいます。このままだと義経はもちろん、奥州藤原氏も危険です。そこで奥州藤原氏は、「義経の首を差し出せば、手柄を立てたということで許してもらえるだろう」と考え、義経を襲撃。義経は、自ら命を絶ちました。

その後、奥州藤原氏は義経の首を頼朝に差し出しますが、「捕まえろと言ったのに、なぜ殺したんだ!」と逆に頼朝を怒らせてしまうことに。結果として、奥州藤原氏は頼朝の手によって滅ぼされてしまったのでした。

鎌倉幕府成立の年は?

■1185年とする説
1185年に守護と地頭が置かれたことで、頼朝が実質的に全国を支配することに。そのため、この年を鎌倉幕府成立とする説があります

■1192年とする説
頼朝は、1192年に征夷大将軍に任命されます。鎌倉幕府の「幕府」とは「将軍がいる陣営」という意味のため、この年をもって鎌倉幕府成立とする説もあります

頼朝の思惑にも目を向けよう

源平合戦は、一ノ谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いの3つの戦いを中心に繰り広げられました。覚え方は「平氏は、い・や・だ」でしたね。守護と地頭を置いた本当の目的が「全国を支配するため」であったことなど、頼朝の思惑を踏まえながらイメージすると、この時代の流れを深くできるようになりますよ。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。