鎌倉時代【1】源平合戦3つの戦い ―― イメージで覚える中学受験歴史
平治の乱にて、平清盛に敗れた源氏。源義朝(みなもとのよしとも)は処刑され、その息子の頼朝(よりとも)は伊豆に流されました。しかし頼朝は平氏に負けた悔しさを忘れず、約20年の時を経た1180年、伊豆から兵を挙げます。この出来事から1185年の壇ノ浦(だんのうら)の戦いまでが「源平合戦」と呼ばれ、頼朝は鎌倉に入り、活動の拠点としました。
平氏は「い・や・だ」の3つの戦い
いくつもの戦いをまとめて「源平合戦」と呼ばれますが、そのなかでも特に源氏が平氏を追い詰めた戦いを3つ紹介します。合言葉は、平氏は「い・や・だ」です。
一ノ谷の戦い
「い・や・だ」の「い」は、1184年の一ノ谷(いちのたに)の戦いです。一ノ谷の戦いでは、源頼朝の弟・義経(よしつね)が大活躍しました。
一ノ谷は現在の神戸市にあたる場所ですが、断崖絶壁の崖があることでも有名です。目の前には海、後ろには山が控えるこの崖は、守りを固める場所としてはぴったり。平氏は、この崖の下に陣取りました。対して義経の軍は、鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる山道を登り、平氏を見下ろせる位置に陣取ります。あまりの崖の険しさに「この崖を本当に降りるんですか?」と家来たちはおそるおそる義経に聞いたようですが、そこは血気盛んな義経。「鹿もこの崖を降りていた。馬でも大丈夫だ!」と猛スピードで駆け降り、平氏に襲いかかりました。もともと義経は、こうした奇襲が得意。相手のスキをつく作戦が功を奏し、平氏は徐々に追い込まれていきます。
屋島の戦い
続いて「い・や・だ」の「や」は、1185年の屋島(やしま)の戦いです。香川県の屋島で繰り広げられたこの戦いでも、源氏は勝利を収めます。屋島は、現在の香川県高松市のこと。当時、香川県は讃岐(さぬき)国とよばれていました。
屋島の戦いでは、平氏が掲げた扇の的を、源氏軍の那須与一(なすのよいち)という弓の達人が射抜いたというエピソードがあります。的までの距離は諸説ありますが、70m以上はあったとか。現代でもアーチェリーという競技がありますが、世界大会の的の距離もおよそ70m。那須与一が今でも生きていたら、すごい記録を打ち出したかもしれませんね。
壇ノ浦の戦い
一ノ谷、屋島と追い込み、最後は「だ」の戦い、関門海峡付近でおこなわれた壇ノ浦の戦いです。壇ノ浦の「壇」の字は、漢字で書けるように練習しておきましょう。
壇ノ浦の戦いは、主に船上で弓を使って争われた戦いですが、義経は平氏の「船の漕ぎ手」を狙うように指示します。当時、武器を持たない漕ぎ手を狙うのはNGとされていましたが、義経はその暗黙のルールを破り、平氏の船の動きをとめ、集中攻撃をかけました。結果として、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡。平清盛が太政大臣となってわずか18年ほどで、平氏中心の時代は終わりを告げたのです。
源平合戦後 ―― 頼朝と義経の対立
念願の“打倒平氏”を実現した一連の流れのなかで、特に活躍したのが義経です。義経は朝廷に呼ばれ、役職を与えられました。
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