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江戸時代【3】徳川吉宗の享保の改革 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年7月12日 吉崎 正明

徳川綱吉のころから続く「財政難」というピンチを乗り切るため、江戸幕府は改革を進めました。なかでも、8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の享保の改革、老中・松平定信(さだのぶ)の寛政の改革、そして同じく老中の水野忠邦(ただくに)による天保の改革は「三大改革」とよばれています。そのほか、三大改革と同時期に起こった田沼意次(おきつぐ)に関わる出来事、そして元役人の大塩平八郎についてのエピソードにも注目です。

今回は三大改革のひとつ、徳川吉宗による「享保の改革」を見ていきましょう。

三大改革をイメージするには?

江戸時代には色々な改革があり、特に「三大改革」は整理しにくく思えるかもしれません。そこでまずは「今日かんてん食べたい。よし!まずは水だ!」と語呂合わせでイメージしてしまいましょう。かんてん(寒天)は、杏仁豆腐やようかんをつくるときに使われますよね。

徳川吉宗 ―― 享保の改革

徳川綱吉の死後、徳川家光の孫で、綱吉の兄の子として知られる家宣(いえのぶ)が江戸幕府6代将軍の座を受け継ぎました。しかし家宣は将軍となったあと、わずか3年で亡くなります。その後、家宣の息子の家継(いえつぐ)が4歳で7代将軍となりますが、こちらも8歳という若さで亡くなりました。8歳とは、現在でいうと小学2年生くらいの年齢。もちろん家継には子供がいなかったため、江戸幕府は後継ぎが見つからず大ピンチ。徳川将軍家から後継ぎが見つからない場合には、紀伊・水戸・尾張の「徳川御三家」のなかから後継ぎを探すことになっていました。その結果、紀伊の徳川吉宗が8代将軍となります。

綱吉が将軍だった時代の影響もあり、吉宗が将軍となった当時の幕府はきびしい財政難が続いていました。そこで吉宗は幕府を立て直すため、みずから率先して政治をおこないます。たとえば武士には節約(質素倹約)をすすめ、吉宗みずからも質素な生活を心がけました。吉宗によるこうした政治改革は「享保の改革」とよばれ、江戸の三大改革のひとつとして数えられます。

ちなみに「きょほう」や「きょうほ」と読み間違える子が多いですが、「巨峰」でも「競歩」でもありません。享保は「きょうほう」と読みますよ。

享保の改革

享保の改革では、おもに次の6つがおこなわれました。

享保の改革
・新田開発
・目安箱の設置
・上米の制
・公事方御定書
・洋書の輸入
・さつまいもの研究

新田開発

吉宗が力を入れたことのひとつに「新田開発」があります。これにより水田の面積は、豊臣秀吉のころの2倍に増えたとされています。これまでも新田開発はおこなわれていましたが、吉宗のころは町人が中心となって開発をおこない、利益も町人に分配されていました。

上米の制

吉宗は「上米(あげまい)の制」を制定します。上米の制とは、幕府の収入を増やすため、各大名にも米を納めさせる政策のこと。もちろん大名はそう簡単には納めてくれないため、吉宗は参勤交代で大名を江戸に滞在させる期間を1年から半年へと短くし、大名の負担を減らしました。

■「米将軍」と呼ばれた吉宗
ここまで、新田開発も上米の制も、「米」に関わるものが多いことに気づきましたか? このように「米」に関する政策が多かったことから、吉宗は「米将軍」ともよばれたのです

目安箱の設置

目安箱とは、町の人々の意見を聞くために用意された意見箱のこと。幕府に届く“直通メール”のようなものをイメージするとよいでしょう。この意見箱によって、貧しい人でも無料で診察や治療をしてもらえる「小石川養生所(ようじょうしょ)」が生まれました。現在の消防の役割、「町火消し(まちびけし)」ができたのも意見箱に届いた意見がきっかけといわれています。

公事方御定書

吉宗は「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」という裁判のルールも定めました。裁判や刑の基準が決められたことで、公平な裁判がおこなわれるようになりました。

洋書の輸入

吉宗が将軍のころ、キリスト教とは関係ない内容が書かれた一部の洋書も輸入できるようになりました。これにより日本では「蘭学(らんがく)」という学問がさかんになります。「蘭」とは、オランダのこと。オランダ語を通じて、西洋の学問を学ぶようになったのですね。

■『解体新書』
蘭学で代表的なのが、杉田玄白と前野良沢(りょうたく)などが著した解剖書『解体新書(かいたいしんしょ)』です。解体新書は、オランダ語で書かれた解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳したもの。ちなみに前野良沢は杉田玄白と比べると有名ではありませんが、実は『ターヘル・アナトミア』の翻訳は前野良沢がほとんどおこなったとする説もあります

さつまいもの研究

飢饉(ききん)対策として、吉宗は「さつまいもの栽培方法」などの研究を命じます。飢饉とは、農作物が育たず、人々が食べ物不足で苦しめられること。さつまいもの研究をおこなったのは青木昆陽(こんよう)という人物で、「かんしょ先生」ともよばれました。かんしょとは、さつまいものことです。青木昆陽は、前野良沢にオランダ語を教えた人物としても知られています。

享保の改革は、いったんは成功した

吉宗のさまざまな改革のおかげもあり、幕府の財政状況はいったんは良くなります。享保の改革は、一応成功したのです。しかし1732年に起きた天候不順で、イナゴやウンカなどの害虫が大量に発生し、稲を食べ尽くしてしまいました。これにより、西日本一帯をはじめとして大凶作におちいります。この大凶作は「享保の大飢饉」とよばれ、幕府の財政はふたたび悪化してしまったのです。

さらに、年貢を納める割合が「四公六民(しこうろくみん)」から「五公五民(ごごうごみん)」に変更になりました。四公六民とは、収穫した米の4割を領主に納め、6割は農民のものとなるということ。つまり五公五民となったことで、農民の負担が増えてしまったのです。こうして年貢の負担が増え、食べ物不足となると、農民は年貢の引き下げを求めて「百姓(ひゃくしょう)一揆」を起こすようになりました。ちなみに当時の江戸時代の農民は「百姓」とよばれます。一方で町人は、米屋を襲撃する「打ちこわし」を起こすようになるなど、徐々に不安定な世の中が訪れていったのです……。


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※記事の内容は執筆時点のものです

吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。