江戸時代【3】徳川吉宗の享保の改革 ―― イメージで覚える中学受験歴史
徳川綱吉のころから続く「財政難」というピンチを乗り切るため、江戸幕府は改革を進めました。なかでも、8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の享保の改革、老中・松平定信(さだのぶ)の寛政の改革、そして同じく老中の水野忠邦(ただくに)による天保の改革は「三大改革」とよばれています。そのほか、三大改革と同時期に起こった田沼意次(おきつぐ)に関わる出来事、そして元役人の大塩平八郎についてのエピソードにも注目です。
今回は三大改革のひとつ、徳川吉宗による「享保の改革」を見ていきましょう。
三大改革をイメージするには?
江戸時代には色々な改革があり、特に「三大改革」は整理しにくく思えるかもしれません。そこでまずは「今日かんてん食べたい。よし!まずは水だ!」と語呂合わせでイメージしてしまいましょう。かんてん(寒天)は、杏仁豆腐やようかんをつくるときに使われますよね。
徳川吉宗 ―― 享保の改革
徳川綱吉の死後、徳川家光の孫で、綱吉の兄の子として知られる家宣(いえのぶ)が江戸幕府6代将軍の座を受け継ぎました。しかし家宣は将軍となったあと、わずか3年で亡くなります。その後、家宣の息子の家継(いえつぐ)が4歳で7代将軍となりますが、こちらも8歳という若さで亡くなりました。8歳とは、現在でいうと小学2年生くらいの年齢。もちろん家継には子供がいなかったため、江戸幕府は後継ぎが見つからず大ピンチ。徳川将軍家から後継ぎが見つからない場合には、紀伊・水戸・尾張の「徳川御三家」のなかから後継ぎを探すことになっていました。その結果、紀伊の徳川吉宗が8代将軍となります。
綱吉が将軍だった時代の影響もあり、吉宗が将軍となった当時の幕府はきびしい財政難が続いていました。そこで吉宗は幕府を立て直すため、みずから率先して政治をおこないます。たとえば武士には節約(質素倹約)をすすめ、吉宗みずからも質素な生活を心がけました。吉宗によるこうした政治改革は「享保の改革」とよばれ、江戸の三大改革のひとつとして数えられます。
ちなみに「きょほう」や「きょうほ」と読み間違える子が多いですが、「巨峰」でも「競歩」でもありません。享保は「きょうほう」と読みますよ。
享保の改革
享保の改革では、おもに次の6つがおこなわれました。
享保の改革
・新田開発
・目安箱の設置
・上米の制
・公事方御定書
・洋書の輸入
・さつまいもの研究
新田開発
吉宗が力を入れたことのひとつに「新田開発」があります。これにより水田の面積は、豊臣秀吉のころの2倍に増えたとされています。これまでも新田開発はおこなわれていましたが、吉宗のころは町人が中心となって開発をおこない、利益も町人に分配されていました。
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