明治時代【3】大日本帝国憲法と国会開設 ―― イメージで覚える中学受験歴史
板垣退助が中心となって進められた自由民権運動の勢いはますます強まり、各地で盛り上がりを見せていきます。一方で「藩閥政治をひっくり返されるかもしれない……」という不安を抱いていた政府にとって、自由民権運動を推進する人たちは都合が悪い存在。そこで政府の悪口を新聞や雑誌に書いてはいけない条例や、役人の悪口を禁止する法律などをつくり、きびしく取り締まりました。
こうした激動のさなか、ついに「大日本帝国憲法」が発布され、日本初の国会が開設されます。
明治時代は「3つのかたまり」でイメージしよう
①スタート=明治維新 …… 明治新政府が政治をするためのルールづくり
②前半=国内政治 …… 国会ができるまで(←前回の続き)
③後半=国外政治 …… 日清戦争・日露戦争と条約改正
Contents
北海道開拓使官有物払い下げ事件
政府が自由民権運動の取り締まりを強化するなか、その政府が事件を起こします。当時、開拓使の屯田兵(とんでんへい)たちが頑張って開拓していた北海道には、官営の施設がたくさんありました。官営とは「政府が経営する」という意味です。そんな官営の施設を、北海道開拓使の長官・黒田清隆(きよたか)が友達に破格の値段で売っていたのです。実に1400万円相当のものを30万円ほどで、しかも利息なしの30年払い……。もはや、タダであげたも同然です。
この事件は「北海道開拓使官有物払い下げ事件」と呼ばれ、板垣退助や自由民権運動賛成派の人たちから「国民が頑張って払っている税金を何だと思っているんだ!」「わいろ政治反対!」と非難されました。そして以下のようなやり取りを経て、自由民権運動賛成派の人たちは「10年後に国会を開くこと」を政府に約束させます。
自由民権運動賛成派:国会をつくれ!
政府:つくらん!
自由民権運動賛成派:そうか、じゃあ政府の払い下げ事件を国民にバラすぞ!
政府:それだけは勘弁してくれ。わかった、10年後に国会を開くことを約束しよう……
そして1881年、天皇から「国会開設の詔(みことのり)」が出されました。「詔」は、天皇のお言葉という意味です。このとき、大隈重信(おおくましげのぶ)が明治政府から追放されてしまいます。自由民権運動の人々とつながっていたから、というのがその理由です。ちなみに、大隈重信は早稲田大学の創始者としても有名ですね。
自由党と立憲改進党
10年後の国会開設に備え、1881年に板垣退助が自由党を、1882年に大隈重信が立憲改進党をつくりました。
自由党
自由党はフランス流の急進的な政治をモデルにしてつくられました。フランスは、市民がたびたび「革命」を起こす国として知られます。たとえば、趣味の宝石や時計を買うために市民に重税を払わせる政治をしていたルイ16世と、王妃・マリー・アントワネットをフランス市民が処刑に追い込んだことも。こうした一連の改革は「フランス革命」と呼ばれ、まさに「みんなが中心」の民主主義の姿がそこにありました。そして板垣退助が目指したのは、まさにフランスのように“市民みんなで考える”政治だったのです。
とじる
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