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明治時代【3】大日本帝国憲法と国会開設 ―― イメージで覚える中学受験歴史

2021年11月13日 吉崎 正明

板垣退助が中心となって進められた自由民権運動の勢いはますます強まり、各地で盛り上がりを見せていきます。一方で「藩閥政治をひっくり返されるかもしれない……」という不安を抱いていた政府にとって、自由民権運動を推進する人たちは都合が悪い存在。そこで政府の悪口を新聞や雑誌に書いてはいけない条例や、役人の悪口を禁止する法律などをつくり、きびしく取り締まりました。

こうした激動のさなか、ついに「大日本帝国憲法」が発布され、日本初の国会が開設されます。

明治時代は「3つのかたまり」でイメージしよう
①スタート=明治維新 …… 明治新政府が政治をするためのルールづくり
②前半=国内政治 …… 国会ができるまで(←前回の続き)
③後半=国外政治 …… 日清戦争・日露戦争と条約改正

北海道開拓使官有物払い下げ事件

政府が自由民権運動の取り締まりを強化するなか、その政府が事件を起こします。当時、開拓使の屯田兵(とんでんへい)たちが頑張って開拓していた北海道には、官営の施設がたくさんありました。官営とは「政府が経営する」という意味です。そんな官営の施設を、北海道開拓使の長官・黒田清隆(きよたか)が友達に破格の値段で売っていたのです。実に1400万円相当のものを30万円ほどで、しかも利息なしの30年払い……。もはや、タダであげたも同然です。

この事件は「北海道開拓使官有物払い下げ事件」と呼ばれ、板垣退助や自由民権運動賛成派の人たちから「国民が頑張って払っている税金を何だと思っているんだ!」「わいろ政治反対!」と非難されました。そして以下のようなやり取りを経て、自由民権運動賛成派の人たちは「10年後に国会を開くこと」を政府に約束させます。

自由民権運動賛成派:国会をつくれ!
政府:つくらん!
自由民権運動賛成派:そうか、じゃあ政府の払い下げ事件を国民にバラすぞ!
政府:それだけは勘弁してくれ。わかった、10年後に国会を開くことを約束しよう……

そして1881年、天皇から「国会開設の詔(みことのり)」が出されました。「詔」は、天皇のお言葉という意味です。このとき、大隈重信(おおくましげのぶ)が明治政府から追放されてしまいます。自由民権運動の人々とつながっていたから、というのがその理由です。ちなみに、大隈重信は早稲田大学の創始者としても有名ですね。

自由党と立憲改進党

10年後の国会開設に備え、1881年に板垣退助が自由党を、1882年に大隈重信が立憲改進党をつくりました。

自由党

自由党はフランス流の急進的な政治をモデルにしてつくられました。フランスは、市民がたびたび「革命」を起こす国として知られます。たとえば、趣味の宝石や時計を買うために市民に重税を払わせる政治をしていたルイ16世と、王妃・マリー・アントワネットをフランス市民が処刑に追い込んだことも。こうした一連の改革は「フランス革命」と呼ばれ、まさに「みんなが中心」の民主主義の姿がそこにありました。そして板垣退助が目指したのは、まさにフランスのように“市民みんなで考える”政治だったのです。

立憲改進党

立憲改進党は、イギリス流のおだやかな政治をモデルにしてつくられました。イギリスでは、国王は「君主」として存在しますが、国王の権力は憲法で制限されています。つまりイギリスでは、「国王は君臨すれども統治はせず」という原則にしたがい、議会が中心となって政治をおこなっていたのです。国王がどっしりと座り、一方で強い権限をもった議会が政治をおこなっている、というイメージですね。そのため、比較的なおだやかな政治が展開されていました。

国会の開設を約束したけど……

国会の開設を約束したあと、政府は素直に国会をつくろうとしたと思いますか? 答えは、NOです。事件を起こした自分たちが悪いことは反省していましたが、それでも国会をつくることには反対。でも、「10年後に国会を開く」という約束は守らなければなりません。

そこで政府は、あるアイデアをひらめきます。それは「みんなが自由に“参加できない”ような国会をつくろう」ということです。政府がルールをがちがちに決めてしまえば、自由民権運動派のやつらの思い通りに政治をさせずにすむ ―― と考えたのです。

板垣死すとも自由は死せず

政府にとって厄介な存在の、自由民権運動。その取り締まりをさらに強化しようとしていた1882年、板垣退助が岐阜で演説中に暴漢におそわれます。このとき板垣退助が放った「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は、今でも有名ですね。同じ状況にあったとき、ほとんどの人は自分が生き延びることを考えると思いますが、一方で「自由は死せず」という言葉がとっさに出てくるということは、自由民権運動に板垣退助がかける思いが本気だったということです。

板垣退助は病院に搬送され、天皇の名義でお見舞いを受けます。そして病室内で、次のようなやりとりが交わされました。

板垣退助:天皇陛下が直々に……。本当にありがたい(涙)
政府:板垣さん。あなたの自由党は、たしかフランス流でしたよね。そもそも、フランスに行ったことはあるんですか?
板垣退助:いや、行ったことはないです。
政府:それは大変! お金は用意するから、ぜひフランスに留学すべきです!

明治政府にとって、自由民権運動の“ボス”であった板垣退助は邪魔な存在でした。だから、外国に行かせようとしたのです。そして天皇からのお見舞いにも感動していた板垣退助は明治政府の策略にはまってしまい、フランスへと旅立ちました。

秩父事件

当時、政府は西南戦争に備えるために大量のお金を発行していました。お金が大量にあるとモノの値段も上がるため、物価が上昇(インフレ)します。これに対し、松方正義(まつかたまさよし)が物価を下げる「デフレ政策」をおこないました。税金を多く集めたうえで、その集まった紙幣を焼き捨てたのです。しかし今度は手元にお金がないため、人々はモノを買えなくなってしまいました。そして物価が急激に下がったことで、さまざまな事件が起こります。そのひとつが、秩父事件です。

埼玉県の秩父は、昔から養蚕(ようさん)がさかんな地域でした。しかしデフレにより生糸(きいと)の値段が下がり、さらに輸出先のフランスでも生糸の値段が大暴落していました。フランスといえば、板垣退助が留学していた国。人々は板垣退助を思い出し、「おれたちの親分は、こんな大変なときに何してるんだ!」と怒り心頭です。

そしてこの頃、自由民権運動に参加している人々のほとんどは貧しい人々でした。生糸が売れず、リーダーも不在という不安定ななか、困窮がピークに達した人々は「秩父困民党」をつくり、1884年、役所や警察署などを襲う秩父事件を起こします。このとき政府は、武力を使って秩父事件を制圧。これを機に、自由民権運動は一気におとろえていったのです。

内閣制度

国会を開くためには、憲法もつくらなければいけません。そこで1882年、政府は伊藤博文(いとうひろぶみ)をヨーロッパに派遣し、ドイツの「プロシア憲法」を学ばせます。このとき、自由党や立憲改進党がモデルにしたフランスやイギリスに行かせず、ドイツを選んだのは、君主制が強い憲法をドイツが使っていたからです。

ここでもう一度確認しますが、政府は国会を開くとはいっても、自由民権運動の人々が望むような国会をつくる気はなく、彼らに合わせた憲法をつくろうとも思っていませんでした。だからフランスやイギリスの憲法ではなく、ドイツの憲法を選んだのです。

さて憲法や国会をつくる前に、内閣制度が1885年に成立します。初代の内閣総理大臣は伊藤博文。内閣とは国の最高行政機関のことで、政治の中心となる重要な役割を持ちます。そして初代伊藤内閣の大臣のほとんどが薩摩藩と長州藩などの出身者で占められていたため、藩閥政府とも呼ばれました。つまり、自由民権運動の人々が考える「みんなで政治をしよう」という国会にはならなかったのです。政府にとっては「内閣制度やそのほかのルールを国会をつくるまえに決めてしまえば、政府の思い通りに進められる」といった思惑を持っていたのですね。

大日本帝国憲法

1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されます。明治憲法とも呼ばれるこの憲法は、天皇が制定した「欽定(きんてい)憲法」とされました。政治のあり方を最終的に決定する権利、つまり主権は天皇にあり、天皇は現人神(あらひとがみ)として「絶対不可侵(ふかしん)」の存在とされていたのです。また、国民の権利が法律で制限されること、さらに国民の義務として「納税」と「兵役(へいえき)」が明記されます。そして大日本帝国憲法の発布を受けたのが、当時の内閣総理大臣・黒田清隆です。彼は、北海道開拓使官有物払い下げ事件で非難を浴びていた人ですね。

ちなみに当時の国民は、大日本帝国憲法の発布を喜んでいたといいます。しかしお雇い外国人のひとり、ドイツ人の医学者ベルツの日記には「みんな喜び、叫んでいるが、おかしなことにだれも憲法の内容をごぞんじない」と書かれていました。そう、国民は憲法の内容をあまり理解していなかったのです。

第1回帝国議会

1890年、ついに国会が開かれます。記念すべき「第1回帝国議会」です。当時は衆議院と貴族院の「二院制」が取られていました。衆議院は選挙で選ばれますが、貴族院はおもに華族から選ばれます。なお、貴族院は戦後の日本国憲法によって廃止されました。

国会開設にあたり、衆議院議員総選挙が実施されます。このとき選挙権が与えられたのは、「直接国税15円以上をおさめている、満25歳以上の男子」のみ。ちなみに直接国税の多くは「地租」だったため、選挙権を持てるのは土地を持っていた地主です。そして諸説ありますが、当時の15円は現在の60万円ほどの価値を持っていたようです。このように“金持ちのための政治”だったため、これらの条件を満たし、選挙に参加できたのは全人口の約1.1%に過ぎませんでした。また、議員として立候補する権利(被選挙権)を持つ人は、「直接国税15円以上をおさめる満30歳以上の男子」のみとされていました。

国会開設までの流れをイメージしよう

政府は「10年後に国会を開く」という約束を、たしかに10年以内に果たします。しかし、残念ながら自由民権運動の人々が思い描いた国会とはなりませんでした。

明治時代の中盤は、大日本帝国憲法の発布と国会開設がその中心です。自由民権運動を推進する人々の考え、そして政府の立場を確認しつつ、国会がつくられるまでの流れをイメージできるようにしておきましょう。

明治時代は「3つのかたまり」でイメージしよう
①スタート=明治維新 …… 明治新政府が政治をするためのルールづくり
②前半=国内政治 …… 国会ができるまで
③後半=国外政治 …… 日清戦争・日露戦争と条約改正(←次回のお話)


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吉崎 正明
この記事の著者

都内の中学受験専門塾で社会・国語担当として活躍。12年間在籍した大手進学塾では難関選抜講座担当を歴任、社内数千名が出場する「授業力コンテスト全国大会」において優勝経験あり。その後家庭教師を経験し、2019年より現在に至る。全国トップレベルの授業技術と多彩な戦術眼を駆使し、御三家中などの最難関校から幅広い成績層まで、多くの受験生の第一志望合格をサポート。茨城県行方市出身。