学習 連載 イメージで覚える中学受験歴史

坂本龍馬と日本の開国・幕末の動乱 ―― イメージで覚える中学受験歴史【人物編】

専門家・プロ
2024年5月18日 吉崎 正明

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「難しくて苦手」という受験生が多いのが歴史。でも、イメージで理解すれば歴史の理解はグンと進みます。「イメージで覚える中学受験歴史【人物編】」では、特定の人物を通じて、時代やテーマごとの歴史をさらにわかりやすく解説します。

これまで時代ごとにお送りしてきた「イメージで覚える中学受験歴史」。今回から「人物編」がスタートしました。

歴史上の偉人が、どんな人物で、どのように活躍したのか。
イメージで覚える中学受験歴史らしく、身近なものにたとえ、わかりやすく解説していきます。

今回は、幕末に活躍した土佐藩の下級武士、坂本龍馬です。

坂本龍馬とはこんな人

まずは、坂本龍馬がどんな人だったのか、ざっくりとイメージをつかみましょう。

龍馬は1835年11月、土佐藩の下級武士の家庭に4人きょうだいの末っ子として生まれます。坂本家の本家は、才谷屋というお金持ちの商家で、分家にあたる龍馬の家もお金持ちだったそうです。

龍馬は、幼少期は泣き虫で、12歳から通っていた塾は友達に泣かされて退塾したともいわれています。さらにはおねしょのクセもあったとか……。まるでドラえもんの「のび太くん」ですね。

でも、泣き虫龍馬は14歳から日根野道場に入門し、剣術の稽古に明け暮れます。それだけでなく、姉の乙女(とめ)からも、日頃から愛情が込められた厳しい指導を受けたそうです。

この乙女さん、失礼ですが名前通りの乙女をイメージしてはなりません。乙女さんは、人呼んで「坂本の仁王様」。身長170cmオーバーの、体重110kgオーバーで、まるでRPGゲーム『ドラゴンクエスト』の「ゴーレム」、任天堂のゲーム「ドンキーコング」に登場する同名のキャラクターのようなのようなパワータイプのお姉様だったそうです。

そのお姉様の特訓の甲斐もあり、泣き虫だった龍馬少年は、明るくたくましい青年へと成長していきます。

この乙女と龍馬は仲が良く、(龍馬の2番目の母の最初の嫁ぎ先である)川島家に一緒に遊びに行ったり、大人になってからも龍馬は手紙を書いたりしていたそうです。
ちなみに川島家の当主は「ヨーロッパ」というあだ名がついており、外国にめちゃめちゃ詳しい人物で、龍馬は外国の事情をよく聞きに訪れていたのです。

ペリーの黒船を見る

1853年3月、「おれはもっと強くなりたいぜよ!」志が高い19歳の龍馬は、剣術修行のために土佐から江戸の剣術道場へ留学しました。

同年6月、浦賀にペリー率いる黒船4隻が来航。品川の沿岸警備に動員されていた龍馬は、もちろんその黒船を目の当たりにします。

もともとは、「戦争になったら外国人の首を土佐へ持って帰るぜよ!」という手紙を土佐に送るほど、血気さかんだった龍馬。

しかし、黒船を見たときの感想は……

「や、やばい!!やばいぜよ!!あんなの勝てんぜよ!!!!」

だったとか。攘夷(外国を倒す)なんてゼッタイに無理ぜよ!

1年後に江戸での修行が終わり、土佐へ戻った龍馬は、土佐の知識人「河田小龍(しょうりょう)」にもその感想を伝えます。小龍は、アメリカに10年住んでいたジョン万次郎から聞いた「外国の話」を本にまとめた、外国に超詳しい人物。小龍の本のおかげで、ジョン万次郎は江戸に呼ばれ、のちに咸臨丸(かんりんまる)の通訳や技術指導として活躍したようです。

龍馬の話を聞いた小龍は「やばかっただろ? 日本にはああいう大きな船や、それを操縦できる人が必要だ」と教えます。

▼黒船の来航と鎖国の終わりについては次の記事でも解説しています

土佐を脱藩し、自分の考えで行動

1862年、龍馬は28歳で土佐藩を脱藩(無許可で藩を出ること)します。当時は藩を出るためには藩の許可が必要でしたが、龍馬は無許可で土佐藩を出ていったのです。

同年秋、江戸の勝海舟のところへ訪れます。龍馬は、勝海舟を暗殺する気だったそうですよ。

龍馬「幕府はやる気あるのか? 何を考えているんぜよ! 答えによっては首をもらうぜよ」
「これからは黒船みたいな船を持つ時代だよ。おれの考えは……(以下略)……だから、日本をひとつにして、外国と渡り合える立場を作ろうぜ!」
龍馬「か、か、かっこいいぜよ!!」感動。

勝海舟は1860年、咸臨丸の艦長としてアメリカを直接見てきた人物。龍馬は勝海舟の考え・知識の広さに感動し、弟子になりました。その尊敬っぷりは「乙女姉ちゃん! おれ、勝海舟の弟子にしてもらったぜよ!」という手紙からもわかります。

亀山社中(のちの海援隊)設立

1865年、坂本龍馬は長崎に「亀山社中」という商社を設立しました。薩摩藩の資金援助も受け、日本ではじめての株式会社とも言われていますよ。

亀山社中は私設海軍と海運業などの貿易会社が合わさったような組織で、航海術の訓練なども行なっていました。文武両道の会社だとイメージしましょう。

龍馬は、勝海舟の弟子として神戸の海軍操練所に同行し、勝海舟の塾でも修行をしていましたが、京都で長州の反乱(禁門の変)などが起こります。これらをおさめ、不満を持った幕府は、操練所も勝海舟の塾も閉鎖したため、龍馬は行き場を失います。だから同じような脱藩した人を集め、亀山社中を設立したのです。

まさに「野球部のない学校に転校して、野球部創部のために部員を集めようとする、漫画『MAJOR(メジャー)』の主人公「茂野吾郎」のようですね。

ちなみに禁門の変では、幕府側に薩摩藩も参加しています。実質的に「薩摩VS長州」がおこなわれたことにもなりますね。

この戦いでKOされた長州藩は、幕府から「おいみんな、長州のことは相手にするなよ」と言われてしまい、さらに自分たちを負かした薩摩藩とも仲が悪い。まさに犬猿の仲!

亀山社中の話に戻しますが、龍馬はすごくレベルの高いビジネスを考えています。
「取引しながら薩摩と長州を仲直りさせるぜよ」犬猿の仲である薩長を、しかもビジネスを通してひとつにまとめるなんて……。厳しそうですよね。でも、やってやるぜよと意気込んでいるのです。

孤立している長州は、どこからも相手にされないため武器も買えません。一方、薩摩は銃や大砲などの武器を買い、それを売って利益を上げたいと考えています。龍馬は「その間に入り、長州にも薩摩にもお互いに良い思いをしてもらおう」と考えます。龍馬が、薩摩と長州の仲直りのためのキューピッドに見えませんか?

薩長同盟の仲立ち

1866年、龍馬の仲立ちによって、ついに薩摩と長州が同盟を結びます(薩長同盟)

考えてみれば、ここまで長かったんです。
尊王攘夷(天皇を敬い、外国人を追い払おう)の考えが広まった幕末。

薩摩藩は1862年、生麦村で大名行列を横切ったイギリス人を斬ってしまう「生麦事件」を起こします。その報復として、1863年薩英戦争。薩摩藩VSイギリス。イギリスの軍艦搭載された最新鋭の「アームストロング砲」などを前に、薩摩藩は敗北します。いや、イギリス相手なんて絶対に薩摩藩負けるでしょ、って感じですよね。

そして長州藩は1863年、下関で停泊していた外国船に砲撃をおこないます。その報復として、1864年、アメリカ・オランダ・イギリス・フランスの合計17隻、四国連合艦隊砲撃事件。四国連合艦隊の攻撃により、下関の砲台を次々に破壊され、長州藩は敗北します。4つの国の艦隊に対して砲台で応戦するなんて、さすがに長州藩は無謀でしたよね……。

薩摩も長州も、この戦いを経て「外国を倒すのは無理。じゃあ、幕府を倒そう」という気持ちになるも、それぞれ単体では弱いため、幕府に太刀打ちできません。じゃあ薩摩と長州が協力すれば、といっても、犬猿の仲のような状態です。

そこで、龍馬の出番。亀山社中のビジネスにより、お互いに利益が生まれるようにし、少しずつ距離を縮めていくのですね。こうして西郷隆盛桂小五郎(木戸孝允)と3人で出会い、抜群のコミュ力を発揮しつつ「幕府を倒すという目的が同じなら」ということで薩長同盟を成立させるのです。彼らを仲間にして同じ目標に向かって進むすがたは、まさに漫画『ONE PIECE』の主人公「ルフィ」、同じく『キャプテン翼』の「大空翼」のようですね!

▼「生麦事件」と「薩英戦争」、「四国連合艦隊砲撃事件」前後の流れについては次の記事でも解説しています

大政奉還

1867年に、幕府の15代将軍の徳川慶喜により、大政奉還がおこなわれます。政権が朝廷に返されることになり、これで江戸幕府による政治が終わります(このあたりの流れはこちらもごらんください)。

ここで考えてみましょう。幕府を倒そうという薩長同盟が成立しても、幕府VS薩長同盟による戦争、起こりませんでしたよね。

じつは、龍馬による水面下での活躍が影響していると考えられています。龍馬は「戦争で国内の兵力を削り合っていたら、外国に追いつけんぜよ」という考えを持っているので、国内での戦争は絶対に起こしたくなかったのです。

そこで、土佐藩主を通じて徳川慶喜に「大政奉還をおこない、戦いを回避してほしい。戦いで負けない限り、あなたは政治でまた活躍できる」ということを伝えます。ざっくりと「いまは逃げろーーー!!!」と伝えたイメージがわかりやすいです。

龍馬を語るうえで有名な「船中八策」(五箇条の御誓文の大もとになったとされる8つの文。しかし、近年では「後世の創作だったのではないか」と言われています)のような新しい政治モデルが描けていたから、大政奉還という提案ができたのかもしれません。

その後1867年11月、寺田屋事件で暗殺されてしまい、33歳の若さでこの世を去ることになりました。

▼薩長同盟をきっかけにした江戸幕府の終焉については次の記事でも解説しています

まとめ

龍馬については、中学受験社会という観点からは、薩長同盟の仲立ちとして活躍したことを覚えておけば十分です。

歴史の偉人として大人気の龍馬ですが、じつは「教科書からすがたを消す」ということが話題となりました(人気のためか、削除の危機は防げたようです)。歴史も研究が進めば更新されるように「龍馬は教科書で取り上げるほどの功績を残していないのでは」というのが理由です。

だからこそ、龍馬が「何をしたか」というよりも「どんな考えをもって何をしようとしたのか」に目を向けると歴史を学ぶ意義が見いだせるのではないでしょうか。

今回でいえば大政奉還は、テキストを読む限り坂本龍馬が関連しているとは思わないはずです。でも、龍馬のエピソードを知ると大政奉還の理解もさらに深まると思います。

歴史上の人物のエピソードを知ることで、歴史が好きになるきっかけにしてもらえたらという願いを込め、今回紹介させていただきました。

見ていただくと、龍馬は幕末の日本を救うべく、いろいろな人と出会い学び、手を取り合い、自分の信念を伝えてきた人物であることがわかると思います。

1865年 亀山社中(のちの海援隊)設立(31歳)

1866年 薩長同盟(32歳)

1867年 大政奉還(33歳)→暗殺

上記を見ると、龍馬が大きく輝いたのは、死ぬ間際の3年間であったことがわかりますね。人生のラスト3年で日本をガラッと変えて、変革の途中で散っていくのです。

最後に

不定期になりますが、「イメージで覚える中学受験歴史」人物編については、楽しく読めて歴史に興味が持てるコンテンツを目指し、引き続きお送りしていきたいと考えております。楽しみにしていてください。

世の中で出会う、すべてのことが社会科です。
親子で会話を楽しむ際に、ぜひ社会ネタも入れてみてください。

※なお、龍馬の「龍」は新字体の「竜」と表記される場合もあります。中学受験社会では「坂本竜馬」と書いてもマルですし、私も普段は「龍」の新字体である「竜」の方で教えています。しかし、坂本龍馬は自身の名に「竜」を使ったことが一度もないという事実から、今回は偉人に敬意を払い「龍」の表記でお送りします。

※人物をわかりやすく解説するため、記事中では年齢を表記していますが、中学受験社会においてはとくに覚える必要はありません。歴史上の人物の年齢は、数え方によって1歳ほどずれてしまうことがあるためです。

坂本龍馬の年齢については、以下を参考に表記しています。
高知県立坂本龍馬記念館|高知県立坂本龍馬記念館 (ryoma-kinenkan.jp)

※記事の内容は執筆時点のものです

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